第48話 リリアーヌ様に
カルヴェ子爵家の正面玄関は、石造りではなかった。
木の扉だった。色の深い、手入れの行き届いた木材で、真鍮の取っ手が磨かれていた。小さな傷がいくつか、補修されずに残っている。
廊下の壁に薄い黄色の壁紙が貼られていた。廊下の端のテーブルに花が一輪、今朝切ったと思われる花だった。水が新しかった。床は木材で、歩くと音がした。一歩ごとに、自分の体重が音になる。ヴォワール家の石造りの廊下では、こういう音がしない。
ソフィーが先に立って歩いた。振り返らずに、少しだけゆっくりと歩いた。いつもより早口ではなかった。階段の途中で一度だけ手すりに触れた。頼るほどの傾斜ではない。ただ触れた。
ミラヴェルはソフィーの背中を見ながら歩いた。いつもは正面から見ているから、背中はあまり見ない。肩の位置が左右で少し違った。右が下がっている。疲れている人間は利き手側が下がる。ソフィーは右利きだ。
廊下の壁に小さな額が一枚かかっていた。植物の絵だった。額の縁に少し埃がある。高い位置のものまでは届いていない。
廊下の途中に窓があった。外が見えた。庭ではなく、隣の建物の壁だった。ヴォワール家の廊下の窓からは石畳が見える。どちらも廊下の窓だが、外の景色が違う。
部屋に入った。
窓に薄いカーテンがかかっていた。廊下より暖かい色の光が部屋に満ちている。ベッドの傍らに椅子が二脚、見舞い客用に出ていた。誰かが、来ることを見越して出しておいた椅子だった。
アルベールはベッドに半身を起こしていた。「来てくれましたか?」と言った。声は出ていた。以前より低く、少し息に乗っている。
ミラヴェルは挨拶した。「ご回復の様子を聞いて、安心いたしました」と言った。事実として言える言葉を選んだ。顔色は昨日より戻っている。安心、という言葉が事実として成立するかどうかは、今の自分には判断できなかった。
判断できないことを認識するのに、少し時間がかかった。以前は判断できないことの認識は即座に出た。
扇を開いた。
アルベールに向けた。
綻びは、ない。何かを隠している痕跡がない。この人間の外面と内側の間に、乖離がない。
しかし。
恐怖が、ある。
それは鑑定眼で見えているのではなかった。目で見えている。アルベールの手が、掛け布団の上で小さく重なっている。指先が白い。病人が体を恐れるときの目は内側に向く。今のアルベールの目は外を向いている。部屋の扉の方を、時折見る。
扇を閉じた。
ソフィーが隣に座り、父の様子を話し始めた。昨夜は少し眠れた。朝の食欲が戻ってきた。医師が明後日また来る予定だ。ソフィーが話すたびに、アルベールの指先の力がわずかに緩んだ。娘の声が、体の緊張を少し解く。その順序を、ミラヴェルは静かに見ていた。
「少し水を取ってきますね」とソフィーが立った。
扇を持った手が、自然に膝の上に落ちた。
扉が閉まった。
外から鳥の声が一度聞こえて、止んだ。アルベールがミラヴェルを見た。何かを測るような間があった。
アルベールが、声を落として言った。
「ミラヴェル嬢……あなたのお母様リリアーヌ様に、一度助けていただいたことがある。その話はまた、いずれ。今日は別のことを聞いていただけますか?」
母の名前が、
今は、聞くことにする。
「どうぞ」とミラヴェルは言った。
アルベールが少し間を置いた。
「息子が、私に署名を求めたんです。ある書類に。内容を読んで、断りました。その翌日、倒れました。偶然かもしれない。しかし……」
廊下に足音が聞こえた。
扉が開いた。
ソフィーが水差しを持って戻ってきた。アルベールが口を閉じた。「しかし」の先は出てこなかった。
言い切ることで、息子が危うくなる。
ミラヴェルはそれ以上、続きを聞かなかった。代わりに、アルベールの顔を見た。飲み込むことを選んだ顔だった。
ソフィーがアルベールの肩に手を置いた。アルベールが少し息をついた。ソフィーは父の顔を見ていなかった。肩に手を置きながら、水差しを元の場所に戻していた。
帰り際、廊下でソフィーと並んだ。
「少しだけ、顔色が良くなった気がする。来てくれてありがとう、ミラヴェル」
ソフィーが言い終えた後、少し間があった。その間に何かを言い足そうとして、やめた様子だった。やめた内容が何かは、わからなかった。
「また来ます」と言った。「また」の前に一瞬「来る」が来かけた。「ます」をつけながら気づいた。
ソフィーが「うん、また来て」と言った。
崩れた敬語に気づいていたかどうか、ソフィーの顔からはわからなかった。わからないまま、玄関を出た。
外は夏の終わりの光が強かった。石畳の上に影が落ちている。ミラヴェル自身の影も伸びていた。
今日、鑑定眼は「綻びなし」を返した。嘘をついている人間が「綻びなし」を返すことは、通常あり得ない。アルベールは嘘をついていない。ということは、アルベールが話したことはすべて、アルベールが真実だと信じていることだ。「偶然かもしれない」という言葉も含めて。
「しかし」の後を言えなかったのは、嘘をついているからではない。言えない理由がある。その理由は今日の鑑定眼では読めなかった。精度が落ちている中でも、「綻びなし」だけは出た。出たことが今日の成果だ。
石畳を歩いた。影が伸びていた。八月の終わりの午後の影だ。先月より長い。毎日少しずつ長くなっていく。長くなっていくことに気づいたのは今月に入ってからだ。先月は気にしていなかった。今月、気にしていることが増えた。一覧を作ろうとして、今日はやめた。
「リリアーヌ様に、一度助けていただいたことがある」
その言葉を、今夜は開かないことにした。何が出てくるかは、見当がつく。だから今は開かない。これまでは「わからないから待つ」という形で保留してきた。今日は「見当がつくから開かない」だった。
明日、母に関する記録を探すかどうかも、今夜は決めない。
屋敷に戻る道を歩いた。石畳の上に夕方の光が斜めに落ちている。今日は朝から何度も光の角度を見ていた。庭でも、カルヴェ家の廊下でも、帰り道でも。光の角度を見る癖が、今月に入ってついた。六月にはなかった癖だ。
屋敷に戻り、ヤニクへの書き付けを書いた。シャルルとヴァラン派の接触の経路と、署名を求めた書類の出所。この二点を調べるよう頼んだ。封をして、使用人に渡した。
書いている間、ペンが止まらなかった。今朝は何度もペンが止まった。同じ一日の中に、止まる時間と止まらない時間があった。止まる理由と止まらない理由の違いを、今夜考えようとして、やめた。
翌日、カルヴェ家の廊下で、シャルルとすれ違った。




