第45話 八月の庭
八月の終わりに、母の庭に初めて出た。
理由は説明できない。
強いて言えば、七年間手入れをしなかったわりに、庭はまだ生きていた。雑草の中に、誰かが植えたと思われる紫の花が、数本だけ残っていた。
スミレではない。しかし色が似ていた。私はそれを見て、何かを考えかけて、やめた。やめた、という事実だけを記録する。
八月の終わりの光は、六月と角度が違う。頭の真上から差していた日差しが、今は傾いている。背丈ほどまで伸びた雑草の穂先だけが細く輝き、根元は影に沈んでいた。石壁に映る影が長く、石畳の半分まで届いている。蝉が鳴いていたが、遠かった。夏の盛りには頭上にいたものが、今日は木々の奥にいる。
七年間、裏手の扉を開けたことがなかった。今日は理由なく開けた。扉は重かった。蝶番が錆びていた。それでも鍵は回った。
石の廊下から一段下りると、土の地面になった。土と石の境目に苔が生えていた。七年間誰も踏まなかった境目の苔は、均一に広がって、踏まれた跡がない。庭の奥まで陽が届いていない場所がある。そこだけ草の色が違った。
雑草を踏みながら歩いた。靴の先が湿った草に触れた。踝の高さのところもあれば、腰まで来るところもある。七年間で伸びた。それでも庭は生きていた。石の壁際にはいちばん背の高い草が集まっていた。壁に向かって伸びようとして、届かないまま止まっていた。
紫の花の傍に来て、しゃがんだ。
葉の形を確かめた。葉脈の走り方、茎の太さ、花弁の枚数。萼の形状から科を推定しようとした。鉱物なら種を特定できる情報量だった。しかし植物の分類については、知識がない。名前を調べるとすれば記録院か霜市場の薬草師に聞く必要がある。それは今日でなくてよい。
地面の土は湿っていた。日当たりが悪いのか、八月でも乾ききっていない。手を伸ばして茎の近くの土に触れた。ひんやりとしていた。触れたことに、後から気づいた。
花の色は、芯のある濃い紫だった。スミレより大きく、形が違う。それでも似ていた。何に似ているのかを考えかけて、やめた。どれくらいそこにいたかは記録していない。やがて立ち上がり、靴底についた土を石の縁で払った。
庭から上がり、石の廊下を歩いた。北国の石造りは夏でも冷えている。足元から冷気が這い上がってくる。八月の変わり目に毎年起きる感覚だ。扇を手に持ったまま、自室には戻らずしばらく廊下を歩いた。目的はなかった。廊下の端まで歩いて、戻った。もう一度歩いた。三度目に、自室の扉の前で止まった。止まった理由はわからなかった。入った。
六月の終わりから六週間が経っていた。何が変わり、何が変わっていないかを、廊下を歩きながら整理しようとした。今日は少し時間がかかった。
ムーラン子爵に関わる一件は、参照記録として処理が完了している。ナタンが霜市場に戻ったことはヤニクから先週報告があった。本人の意思で戻ることができた、という一点を確認した。カトリーヌ・ド・ムーランについては、まだ判断を保留している。ムーラン子爵の動きを見張っていた意図と目的の間に、まだ説明できない何かがある。情報が足りないときは待つ。今週中にヤニクへ追加の確認を依頼するつもりでいる。
今日は夕食に出ないことにした。
今まで、欠かしたことはなかった。父と兄の話が情報の受け取り口だったからだ。今日は出ない。使用人に書き付けを渡した。「本日は気分が優れませんので、失礼させていただきます」。事実でも嘘でもない一文を書くのに、少し時間がかかった。ペン先を紙の上に置いたまま、しばらく動かさなかった。
書き付けを受け取った使用人が頭を下げて下がっていった。廊下を遠ざかる足音が聞こえた。足音が消えてから、扇を手に取った。開いたが、何も向けなかった。部屋の空気には綻びがない。閉じた。
自室でお茶を飲んだ。
正しい温度だった。
蝋燭を灯して、机の前に座った。読みかけの写しを開いたが、二ページで閉じた。文字は読めた。ただ続ける理由が来なかった。
机の上に写しを置いたまま、しばらく蝋燭の炎を見ていた。揺れていた。窓は閉めているのに揺れた。壁の石が呼吸しているのかもしれない、とふと思った。石は呼吸しない。そう知っている。知っていてそう思った。
窓の外から虫の声が始まっていた。昼間には聞こえなかった声だった。耳を傾けていることを意識したのは、だいぶ後になってからだった。
その夜、庭で見た紫の花のことを考えかけた。やめた。
また考えかけた。やめた。
三度目も考えかけた。やめた。
三度やめた後で、扇を手に取った。開いた。何も向けなかった。扇越しに部屋を見た。綻びはない。
扇を閉じた。机の上に置いた。
「やめた事実だけを記録する」という言葉が内側から来るかと思ったが、来なかった。記録しようとしたという事実が宙に浮いた。置かないまま夜が深くなった。蝋燭の残りが短くなっていた。
蝋燭の芯が小さく音を立てた。
その後、また静かになった。
翌朝。
窓の外に庭が見えた。蝉の声は今日も遠かった。庭の雑草の輪郭が朝の光の中にある。昨日と同じ庭だ。昨日踏んだ草が今日も同じ位置に立っている。
出るかどうか考えた。出ないことにした。理由を考えようとして、考えないことにした。
机の前に座り、今日のことを整理した。カトリーヌの件はもう少し待つ。ヤニクへの依頼は今日の昼頃でよい。アンセルムへ確認したい文書が一点あるが、急がない。今日するべきことはある。
扇を手に取った。一度開いた。
閉じた。
何も見ていない。見る必要がない。
扇を机の端に置いた。毎朝確かめる習慣だ。
ヤニクへの書き付けを書いた。確認事項を三点に絞って記し、読み返して一点削った。二点で十分だった。封をして、使用人に渡した。
午前の光が、窓から斜めに入ってきた。昨日庭で見た光と、同じ傾きだった。
その日の午前。
玄関に、ソフィーが来た。
廊下を来る足音が聞こえた。使用人が名前を告げるより先に気づいた。速さではなかった。踏み込みの力が、いつもより重かった。ソフィーは自分がそう歩いているとは思っていないだろう。しかし、そうなっていた。
いつもとは、違った。
ソフィーは、笑っていなかった。
扇は机の端にあった。取らなかった。取らないまま、扉の方を向いた。




