第44話 その説明に、今回ほど
昨夜のことは、まだ体のどこかに残っていた。それでも、朝は普通に来た。
その日の夕食に、一品多かった。
普段の食卓と同じ皿が並んでいて、その端に、もう一つある。温かい汁物だった。季節には少し早い具材で、手間がかかっている。
フェリクスが向かいに座っていて、昨夜のことを何も言わなかった。霜市場のことも、路地のことも、私服の二人のことも、何も言わなかった。スプーンの音だけが、静かに食卓に響いていた。
食事の途中で、ミラヴェルはその一品を確かめた。
今まで気づかなかったことがある。フェリクスが食卓に一品を加えるのは、ミラヴェルが「今日は少し疲れている」という時だけだ。そう言葉にして気づいたことは、今日が初めてだった。七年間の食卓の中に、その一品が何度あったかは、記録していない。
ミラヴェルは何も言わなかった。
一品多い食事を、普通に食べた。汁物は少し甘かった。根菜と干した果実が入っていた。夏に向かう季節の具材とは、少しだけ違う取り合わせだった。
それで、充分だった。
「兄の誠実さをそのまま受け取る」という瞬間を、ミラヴェルはずっと路地の中に置いていた。「わかった。行く」という一語に置いていた。「ああ」と袖を離したことに置いていた。
しかし今日の食卓に来るまで、それがどこに落ちているのかを、正確には分かっていなかった。
窓の外で、誰かが運河沿いを歩いていく足音がした。それだけの夜だった。
数日して、アンセルムから連絡が来た。
ナタンが記録院を訪ねて、証言を残したという報告だった。証言の内容は三つ。偽造金貨の素材製造の依頼を断ったこと。依頼元が霜市場の「馬の商館」を名乗る中間業者だったこと。依頼の文書に、王宮調達部門の内部表記が使われていたこと。
これで参照記録が揃った。アンセルムらしく、日付と時刻まで丁寧に添えられていた。
連絡を受け取ったとき、ミラヴェルはその紙をしばらく机の上に置いたままにしていた。読んだ。もう一度読んだ。情報として処理するのに時間がかかったわけではない。ただ、その紙が存在することを、少しの間だけそのままにしておきたかった。理由は説明できなかった。
アンセルムが整理した記録は、ムーラン子爵の担当部門宛に一通の通知として届いた。「当該期間の調達記録に閲覧申請が入っていることをご確認ください」という文面だった。
断罪ではない。
しかし「誰かが知っている」という事実だけを届ける。それが届いた先に何が起きるかは、届けた側が決めることではない。
今までも、この形をしたものを使ってきた。今回は記録院を通じた公的な通知として届いた。型が一段階、外側に向かって進んでいた。
その日の夕方ヤニクが来た。
裏口の石段に腰を下ろしていた。いつもの位置に、いつもの落ち着きで座っていた。ミラヴェルが扉を開けると、立ち上がった。一礼した。夕方の光が、二人の間に長い影を作っていた。それからしばらく、何かを言う前に間があった。
「ミラヴェルさん。ありがとうございました。一つだけ聞いていいですか。あの時、なんであそこにいたんですか。おれを、探してたんですか?」
ミラヴェルは答えた。
「情報源を失うリスクを回避しただけです」
ヤニクが少し、横を向いた。
情報源を失うリスクを回避しただけだ、と答えた。その説明に、今回ほど時間がかかったことはなかった。
ヤニクは信じなかった。信じていないという表情が、この少年には出ない。ただ少し、横を向いた。それだけで分かった。
なぜ時間がかかったのか。その問いを、今日は記録しないことにした。
短い沈黙があった。気まずさはなかった。むしろ、その沈黙の方が二人の間には馴染んでいた。
ヤニクが帰っていった。
石段を下りて、通りに出て、角を曲がって見えなくなった。その背中が見えている間、ミラヴェルは扇を手に取っていた。背中が角に消えたとき、扇を閉じた。
庭に出た。
七年目の夏の、夕暮れだった。
手入れされていない木の影が、石畳の上に長く伸びていた。夏の終わりに向かって、日が傾く角度が変わってきていた。春に運河から聞こえていた水鳥の声はない。虫の声もまだ始まっていない。夕暮れの庭は、今の季節だけの、少し静かな時間の中にある。どこかで、誰かが薪を割る音がした。隣の屋敷からだろうか。それも、すぐに止んだ。
母の部屋の窓は、今日も閉まっていた。
今日も開けなかった、と一瞬だけ考えた。それを、今は、記録しないことにした。
七年目の夏が、終わりに近づいていた。




