第43話 あなたを置いていくよりは
路地の出口まで、あと十数歩だった。
ヤニクが速度を落とした。フェリクスの足音が、ミラヴェルのすぐ後ろで止まった。三人の距離が、自然と詰まった。
扇を開いたまま、前に出た。
私服の二人が向き直っている。制服はない。しかし立ち方がある。重心の取り方、視線の動かし方、路地の出口への意識の向け方。鑑定眼を使わなくても、動き方が近衛のものだ。フェリクスが後ろに立っている。ヤニクがミラヴェルの少し後ろにいる。
ミラヴェルは口を開いた。
「少々よろしいですか。この件に関する参照記録は、すでに記録院に提出済みです。アンセルム・ノワレ氏のお手元にあります。今後この周辺で同様の件が起きた場合、その記録は正式な文書として扱われることになります」
間があった。
二人が、互いを一瞬だけ見た。
それだけで、充分だった。
二人は何も言わずに、路地の奥に消えた。
フェリクスが小さく息を吐いた。何も言わなかったが、肩の高さが少しだけ下がった。
扇を持ったまま、路地に入った。
ヤニクが先を歩いた。フェリクスが続いた。ミラヴェルが最後に入った。石壁が両側から迫る細い通りで、夜の灯りが届かない。
湿った石の匂いがした。市場の喧騒からこれだけ離れているのに、まだ遠くで誰かの声が反響していた。足元だけを確かめながら歩いた。
奥に、人影があった。
ヤニクが足を止めた。
「ナタンさん」
声が小さく路地に響いた。
人影が振り向いた。蝋燭一本分の明かりが、路地の奥から漏れていた。その光の中に、男の顔があった。四十代か五十代か。顎に短い髭がある。三日間、ここにいた人間の顔をしていた。
ナタンがミラヴェルを見た。
「ヴォワール家の……」と言いかけて、止まった。
後ろに半歩、退いた。隠れる場所を探すような動きだった。
その瞬間、扇を持っていない方の手が、動きかけた。
どこかへ行こうとした。自分でも、どこへ行くつもりだったのか分からなかった。気づいたときには止まっていた。
フェリクスが少し前に出た。「知り合いか」とヤニクに訊いた。
「はい」とヤニクが答えた。
尾けられている少年が、今ここにいる。一人にしておくよりも、連れてきた方がよかった。その判断は、今も変わらない。
ミラヴェルはヤニクに向き直った。
「あなたを置いていくよりは、ましです」
ヤニクが少し間を置いた。
「……はい」
四人が、路地の奥で向き合う形になった。
ナタンが話した。
三日前の夜、霜市場の外れから急いで出た。路地を変えて、知り合いの家に入った。知り合いというのは、隣町で鍛冶仕事をしている従兄弟だった。連絡を取る手段もなく、ただ匿ってもらっていた。三日間、外の物音を聞くだけで過ごした。誰が探しているのか、何が起きているのか、何も分からないまま。そこからここまで、外に出ていなかった。荷物は商館に置いてきた。全部置いてきた。
ナタンは話し終えてから、ヤニクを一度見た。何かを言いたそうにして、止まった。ヤニクが小さく頷いた。それだけで、話したいことは届いたらしかった。
ミラヴェルは聞いた。
「記録院に証言を残すことができます。名前を出す形も、出さない形も選べます」
ナタンがしばらく黙っていた。
路地の奥の蝋燭が、わずかに揺れた。風はなかった。揺れる理由が分からなかったが、揺れた。
「……記録院に、残すんですか。名前ごと?」
ナタンが言った。
「……わかった。残します。残せるなら、残した方がいい。あんたのお母さんがそうしようとしてたんだから」
母の名前ではなかった。しかし、母のことだった。
ミラヴェルは動かなかった。
路地の石壁がある。蝋燭の光がある。ナタンの顔がある。それらが全部、正確に見えていた。何も欠けていなかった。欠けていないまま、ミラヴェルはその場に立っていた。
扇を閉じた。
少し間があった。四人分の影が、石壁の上で重なっていた。
「後日、記録院でお待ちしています。アンセルム・ノワレ氏を通じてください」
ヤニクが、ナタンに向かって小さく頭を下げた。
路地を出た。
後ろでフェリクスが何かを言っていた。低い声で、短く。ヤニクが一語か二語で答えていた。その声が、少し遠くなった。石畳の上に出ると、夜の空気が路地より広かった。市場の灯りが、後ろで小さくなっていった。夜風はまだ生ぬるく、六月の終わりが近いことを思わせた。足を止めずに歩いた。
帰り道、フェリクスは何も訊かなかった。




