↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スミレ色の鑑定眼  作者: 猫じゃらし
第四章 金の契約
43/67

第43話 あなたを置いていくよりは

 路地の出口まで、あと十数歩だった。


 ヤニクが速度を落とした。フェリクスの足音が、ミラヴェルのすぐ後ろで止まった。三人の距離が、自然と詰まった。


 扇を開いたまま、前に出た。


 私服の二人が向き直っている。制服はない。しかし立ち方がある。重心の取り方、視線の動かし方、路地の出口への意識の向け方。鑑定眼を使わなくても、動き方が近衛のものだ。フェリクスが後ろに立っている。ヤニクがミラヴェルの少し後ろにいる。


 ミラヴェルは口を開いた。


「少々よろしいですか。この件に関する参照記録は、すでに記録院に提出済みです。アンセルム・ノワレ氏のお手元にあります。今後この周辺で同様の件が起きた場合、その記録は正式な文書として扱われることになります」


 間があった。


 二人が、互いを一瞬だけ見た。


 それだけで、充分だった。


 二人は何も言わずに、路地の奥に消えた。


 フェリクスが小さく息を吐いた。何も言わなかったが、肩の高さが少しだけ下がった。



 扇を持ったまま、路地に入った。


 ヤニクが先を歩いた。フェリクスが続いた。ミラヴェルが最後に入った。石壁が両側から迫る細い通りで、夜の灯りが届かない。


 湿った石の匂いがした。市場の喧騒からこれだけ離れているのに、まだ遠くで誰かの声が反響していた。足元だけを確かめながら歩いた。


 奥に、人影があった。


 ヤニクが足を止めた。


「ナタンさん」


 声が小さく路地に響いた。


 人影が振り向いた。蝋燭一本分の明かりが、路地の奥から漏れていた。その光の中に、男の顔があった。四十代か五十代か。顎に短い髭がある。三日間、ここにいた人間の顔をしていた。


 ナタンがミラヴェルを見た。


「ヴォワール家の……」と言いかけて、止まった。


 後ろに半歩、退いた。隠れる場所を探すような動きだった。


 その瞬間、扇を持っていない方の手が、動きかけた。


 どこかへ行こうとした。自分でも、どこへ行くつもりだったのか分からなかった。気づいたときには止まっていた。


 フェリクスが少し前に出た。「知り合いか」とヤニクに訊いた。


「はい」とヤニクが答えた。


 尾けられている少年が、今ここにいる。一人にしておくよりも、連れてきた方がよかった。その判断は、今も変わらない。


 ミラヴェルはヤニクに向き直った。


「あなたを置いていくよりは、ましです」


 ヤニクが少し間を置いた。


「……はい」



 四人が、路地の奥で向き合う形になった。


 ナタンが話した。


 三日前の夜、霜市場の外れから急いで出た。路地を変えて、知り合いの家に入った。知り合いというのは、隣町で鍛冶仕事をしている従兄弟だった。連絡を取る手段もなく、ただ匿ってもらっていた。三日間、外の物音を聞くだけで過ごした。誰が探しているのか、何が起きているのか、何も分からないまま。そこからここまで、外に出ていなかった。荷物は商館に置いてきた。全部置いてきた。


 ナタンは話し終えてから、ヤニクを一度見た。何かを言いたそうにして、止まった。ヤニクが小さく頷いた。それだけで、話したいことは届いたらしかった。


 ミラヴェルは聞いた。


「記録院に証言を残すことができます。名前を出す形も、出さない形も選べます」


 ナタンがしばらく黙っていた。


 路地の奥の蝋燭が、わずかに揺れた。風はなかった。揺れる理由が分からなかったが、揺れた。


「……記録院に、残すんですか。名前ごと?」


 ナタンが言った。


「……わかった。残します。残せるなら、残した方がいい。あんたのお母さんがそうしようとしてたんだから」


 母の名前ではなかった。しかし、母のことだった。


 ミラヴェルは動かなかった。


 路地の石壁がある。蝋燭の光がある。ナタンの顔がある。それらが全部、正確に見えていた。何も欠けていなかった。欠けていないまま、ミラヴェルはその場に立っていた。


 扇を閉じた。


 少し間があった。四人分の影が、石壁の上で重なっていた。


「後日、記録院でお待ちしています。アンセルム・ノワレ氏を通じてください」


 ヤニクが、ナタンに向かって小さく頭を下げた。


 路地を出た。


 後ろでフェリクスが何かを言っていた。低い声で、短く。ヤニクが一語か二語で答えていた。その声が、少し遠くなった。石畳の上に出ると、夜の空気が路地より広かった。市場の灯りが、後ろで小さくなっていった。夜風はまだ生ぬるく、六月の終わりが近いことを思わせた。足を止めずに歩いた。


 帰り道、フェリクスは何も訊かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。