第42話 頼みだ
フェリクスの部屋に行くと決めてから、迷う時間はなかった。
扉を開けると、フェリクスは書類の前にいた。
机の端に蝋燭が一本。夜の自室らしく、他の灯りはなかった。部屋の隅が暗い。
フェリクスが顔を上げた。ミラヴェルを見た。書類を置かなかった。置かずに、待った。
ミラヴェルは扉の近くで止まった。
「フェリクス。明日の夜、一緒に来てほしいのです。霜市場に。理由は、後で話します」
フェリクスの手が、止まった。
書類を持ったままだった。手だけが止まって、それ以外は動かなかった。その静止が、一拍、二拍と続いた。
ミラヴェルを見た。顔に何かが通った。怒りではない。別の何かだ。何かは、ミラヴェルには名前をつけることができなかった。
「……霜市場に?」
「はい」
「一人で行ったのか、先日?」
「はい」
また間があった。
今度はさっきより長かった。フェリクスが書類を机に置いた。音はほとんどしなかった。
「……わかった。行く。理由は後で聞く」
フェリクスがペンを置いた。机の端の蝋燭が、わずかに揺れた。
フェリクスは「理由を先に聞かなかった」
今まで、フェリクスは「守りたい」という形で理由を問い詰めてきた。「なぜそこに行くんだ」「俺が確認してくる」それがフェリクスの方法だった。
今日は、理由を後にすることを選んだ。
これが何を意味するのか。今は、記録しないことにする。
「明日の夜、霜市場の外れで合流します」とだけ言って、ミラヴェルは部屋を出た。
廊下を歩きながら、手の中に何もないことを確認した。扇は自室に置いてある。今日のフェリクスの部屋には持っていかなかった。それが正しい選択だったかどうかは、判断しないことにした。
ただ一つだけ確認できることがある。部屋を出るとき、後ろで椅子を引く音がしなかった。フェリクスは書類に戻らなかった。
その日の昼間は、いつも通りに過ぎた。記録院に行く用事はなく、書庫にも寄らなかった。書きかけの鑑定書が机の上にあったが、手が動かなかった。
何かをする気になれなかった、というよりは、何かをする前に、この一日をただ終わらせたかった。
夕食は一人で済ませた。フェリクスの席に料理は用意してあったが、夜の時間まで間があるためか、姿を見せなかった。その空席を、ミラヴェルは一度だけ確認した。それだけだ。
翌日の夜、霜市場は別の場所のような顔をしていた。
昼間の露店は仕舞われて、天幕の骨組みだけが通りに残っている。人の数が昼の三分の一以下になる。しかし動いているものの速度は昼より速い。足音が石畳に落ちる音の質が違う。目的を持って動く人間の足音と、行き場を持たない人間の足音が、昼間より分かりやすく分かれていた。
灯りが少ない。
路地の入口と、酒場の扉と、荷物の集積場に灯りがある。その三点以外は暗い。暗い方が見えるものがある、とミラヴェルは思った。夜の場所は夜に来なければ見えない。水の匂いがした。運河に近い場所だ、と気づいた。
ヤニクが、市場の外れの曲がり角に立っていた。
壁に背をつけず、通りが見える位置に立っていた。昼間の市場でヤニクが選ぶ立ち位置とは違う。夜の市場での立ち方を、この少年は別に持っている。ミラヴェルが近づくと、ヤニクが目で通りの先を示した。
「路地の出口に、二人います」
「今日の私服ですか」
「はい。昨日と同じ二人です」
フェリクスが横に並んだ。ヤニクを一度見た。ヤニクを見てから、路地の方向を見た。昼間の市場には一度も来ない兄が、夜の市場の読み方を知っている。その事実を、ミラヴェルは少しだけ意外に思い、すぐに意外ではないと思い直した。
「どっちだ」
「こちらです」とミラヴェルは言って、路地に向かって歩き始めた。
路地の手前で、袖を引かれた。
止まった。
振り返らなかった。後ろにフェリクスがいることは分かっていた。
風が一度、路地の奥から吹いた。火の気配のない、湿った空気だった。
「……何が起きてるのか、大体は分かった。」
低い声だった。確認の言い方ではなく、報告に近かった。「霜市場に来い」と言われた時点で、この兄は何かを読んでいた。市場の外れの路地に私服が二人いることを見た時点で、もっと読んだ。フェリクスが「大体は分かった」という場合、大体ではなく七割か八割は正確に把握している。
「後で話します」
「ああ」
袖が離れた。
ミラヴェルは前を向いた。
扇を取り出した。握った。開かなかった。必要があるときに開けばいい。今は握っていれば足りる。その握り方が、少しだけ強かった。
「ああ」という一語を、ミラヴェルは路地に向かって歩きながら、胸の中で確かめた。フェリクスが「理由は後で聞く」と言ったことと、「ああ」と袖を離したことと、その二つが今日ここで起きた。
この事実を、ミラヴェルは扇を握りながら、記録した。
記録した、という動作だけを。
路地の出口で、私服の二人が向き直った。




