第46話 後で考える
ソフィーが入ってきた。
外套は整えられていた。髪も崩れていない。しかし笑っていなかった。
ミラヴェルはソフィーの顔を見た瞬間、分析しようとする回路が動こうとした。それと同時に、名前のつかない別の何かも、動こうとした。二つが同時に動いて、互いに邪魔をした。どちらを先に動かすか、選べなかった。
これは、今まで起きたことがなかった。
ソフィーに椅子を勧めた。ソフィーが座った。ミラヴェルも座った。向かい合う形になった。これまでソフィーが来るときは大抵立ったまま話した。今日は二人とも座っている。その違いを、ミラヴェルは静かに置いておいた。
光が窓から入っていた。ソフィーの顔に当たった。
お茶を用意するかどうか、一瞬考えた。今日は出さなかった。出す場面ではなかった。
「ミラヴェル、父が倒れたの。昨日の夜、書斎で。医師は『心臓の発作』だと言ってるけど、父、心臓は丈夫だったのよ。一度も悪いって言ったことなくて」
ソフィーの顔が、
……後で考える。今は聞く。
「今、お父様の容態は?」
「意識はある。でも動けない。ベルナール先生が、しばらく安静にと言っていて」
ミラヴェルは頷いた。ソフィーの声の質を見た。震えていなかった。乾いてもいなかった。速さを抑えることで平静を保っていた。ソフィーはいつも早口だ。今日は違う話し方をしている。
「息子が怪しいと思っているのか」という問いを立てようとして、立てなかった。今は聞く、と最初に決めた。その決定を守った。
「倒れた状況を教えていただけますか。書斎にお一人でいらしたのですか?」
「使用人が最初に気づいたの。夜半前に書斎から音がして。そのとき兄は外出中だったそうで、夜遅くに戻ったって」
ソフィーが一度、視線を手元に落とした。自分の手を見ていた。
「……ミラヴェル、変だと思わない?父、倒れる前日に、兄と激しく言い争ってたの。そんなこと、今まで一度もなかったのに」
「何について言い争ったか、わかりますか?」
「使用人には聞こえなかったって。でも兄の声が大きかったのはわかった、って。父は声を荒げなかったみたいで」
ミラヴェルは「ありがとうございます」と答えた。
窓の外に光が動いた。雲が流れたのかもしれない。室内が一瞬明るくなり、また元に戻った。ソフィーの顔が光の中に入って、出た。その一瞬だけ、表情の細部が見えた。疲れていた。笑っていないだけでなく、疲れていた。
ソフィーがミラヴェルを見た。何かを言いかけて、止まった。その質が、ミラヴェルには読めなかった。読もうとして、後にした。後にしたのは、今日二度目だった。
「……また来てもいい?」とだけ言って、立ち上がった。立ち上がり際に、手を机の端についた。ソフィーにしては、珍しい立ち方だった。
「いつでも」と答えた。
ソフィーが扉を閉めて、出ていった。扉が閉まる音が、いつもより少し重かった。廊下を遠ざかる足音が聞こえた。足音が角を曲がった後、聞こえなくなった。
廊下が静かになった。
気づいたら扇を手に持っていた。開かないまま、手の中にあった。今まで、分析を後にしたことは一度もなかった。後にした理由を問おうとして、問いの形が出てこなかった。
今日は夕食に出ることにした。
食卓に座るまでの廊下で、ソフィーの言葉が浮かびかけた。「父、心臓は丈夫だったのよ」「兄と激しく言い争ってたの」。整理しようとして、やめた。ソフィーの声の質が耳の奥に残っていた。あの速さを抑えた話し方が。
食卓までの廊下は十二歩ある。いつも数えていた。今日は十四歩だった。どこかで歩き方が変わっていた。
スープの温度を確かめた。適切な温度だった。父がいた。兄がいた。テーブルに蝋燭が二本灯っていた。夕食の席ではいつも一本だ。今夜は誰かが増やしていた。二本の光が皿の上で重なっている。影が二方向に伸びていた。
父がいた。兄がいた。二人とも今日の話をしていなかった。
やがて父が新聞から目を離さないまま言った。
「カルヴェ子爵が倒れたそうだな。心臓発作と聞いた。……あの男は、王宮でずいぶん長く中立を保ってきた。中立は、両方から狙われる。真ん中に立っている人間は、どちら側に倒れるか、読まれる前に倒れることがある。……ただの発作であれば、話は別だがな」
皿には手をつけずに、ワインを少し飲んだ。
「そうでございますか」とミラヴェルは言った。
父の言葉を繋げれば、一本の線が引ける。今日は繋げなかった。
兄が箸を置いて言った。
「カルヴェ家の周辺、昨日から近衛の動きが少し変だった。公式の案件じゃないみたいだが……いや、関係ないかもな。俺たちの管轄じゃない」
父が小さく頷いた。兄がワインを注いだ。父の方には注がなかった。父が手で軽く断っていた。その細かいやりとりを、ミラヴェルは見ていた。見ることが、今夜自分にできる一番小さい仕事だった。それだけで会話が終わった。
皿の料理が半分残っていた。食欲がなかったのではない。食べることを忘れていた。気づいてから少し食べた。
お茶を一口飲んだ。いつもより早く飲んだと、後から気づいた。
自室。夜。
蝋燭を灯した。今夜は一本では足りない気がして、もう一本灯した。
机の前に座った。材料は揃っていた。どこから考え始めるかは、見えていた。
見えているのに、動かなかった。
なぜ動かないのかを問おうとして、問いの形が崩れた。問いを立て直そうとして、また崩れた。
扇を手に取った。持ったまま、開かなかった。今まで扇を手に持てば開いていた。今夜は開かなかった。
窓の外に虫の声が続いていた。
やがて扇を置いた。蝋燭の炎が二本、別々に揺れていた。同じ方向に揺れることもあれば、逆を向くこともあった。
今夜は考えられない。その事実を記録しようとして、記録することをやめた。
部屋の中に音がなかった。蝋燭が燃える音も、今夜は聞こえなかった。炎は見えている。しかし音がしない。音のない炎を、しばらく見ていた。
机の上に裏返した紙が一枚あった。「アルベール子爵、心臓発作」と書いた紙だ。捨てずに、裏返したまま置いた。表に返すかどうかは、明日決める。
蝋燭が一本先に消えた。もう一本が少し後に消えた。部屋が暗くなった。目が慣れてきた頃に、横になった。
翌日も、どうしても考えが続かなかった。三日目の午後になってから、ようやく考えが動き始めた。




