第40話 幽霊の調達記録
記録院の扉を開けると、温度が変わった。
外は六月の盛りで、石畳が光を溜め込んでいた。それが扉の内側では一息に消える。夏の記録院は、石造りの建物が熱を遮断する分だけ、外との落差が大きい。蝋燭の灯りが、窓から入る光より存在感を持っている。夏でもここは蝋燭の場所だ、とミラヴェルは思った。七年前から変わっていない。
受付に顔を見せた。顔を覚えられている。手続きが省かれた。
七年目だ、とここでも確認した。
第三書庫の扉を押した。
アンセルムは、窓のない奥の棚の前にいた。
背中でミラヴェルの入室を察したらしく、振り向く前に手元の書類を机に置いた。振り向いて、一礼した。
その所作の中に、わずかな速さがあった。動作の質が変わったわけではない。丁寧さも角度も以前と同じだ。ただ、一拍だけ早い。書類を置いて振り向くまでの時間が、以前より短くなっている。慣れだけではないものが、その速さの中にあった。
ミラヴェルは依頼を三つ告げた。
一つ目を告げたとき、アンセルムは頷きながら書き留めた。二つ目に移ったとき、ペンが一瞬止まった。止まってから、また動いた。三つ目まで聞いて、アンセルムが顔を上げた。
「……全て、本日中に」
「急ぎません。ただ、三つは繋がっています」
「承知しました」
アンセルムが書類を持って書庫の奥へ入った。
「少し時間をください」という一言が、足音とともに遠くなった。
待つ間、ミラヴェルは書庫の入口近くの椅子に座った。
第三書庫は文書量が多い。棚が天井まであって、踏み台がなければ上段に届かない。羊皮紙の匂いがある。インクと、古い製本の糊の気配が混じっている。これは記録院の匂いで、どの書庫にいても同じだ。七年間、この匂いの中に来ていた。
七年目に、初めて「偽造金貨の調達記録」を探しに来た。
それが奇妙なことかどうかは、判断する材料がなかった。記録院は何かを探しに来る場所だ。今日の依頼が以前の依頼と種類が違うとしても、来る場所は同じだ。ただ、椅子に座って待っている間、蝋燭が紙の端に落とす影を見ながら、この建物に積み上がった時間の重さを少し確かめた。
アンセルムが戻ってきたのは、一時間ほどして後だった。
書類を抱えていた。机に広げるとき、一枚ずつ、端を揃えて置く。時間をかけていた。その間、ミラヴェルは立って待った。
「……ミラヴェル様、ご覧いただけますか。王宮調達部門の支払い記録に、存在しない物資への支払いが、この一年間で十七件、ございます。合計金額は……こちらになります。失礼、少し計算が止まってしまいました。この金額は、偽造金貨の推定流通量に、ほぼ一致しています」
机の上の書類を確認した。
数字が揃っていた。
粉の量と帳簿の数字と、支払いの合計。それぞれは別の場所から来た情報だ。床の隅に残された粉、商館の角に落ちていた帳簿の切れ端、記録院の棚に収まっていた支払い記録。それが今、同じ構造の中に収まった。
「これは」とミラヴェルが言いかけた。
アンセルムが静かに頷いた。
「はい。存在しない物資への支払いです。私はこれを……失礼、仮に名前をつけると、『幽霊の調達記録』と呼んでいます」
「幽霊調達」とミラヴェルは繰り返さなかった。
頭の中でだけ、その言葉が形を持った。
幽霊調達。存在しない物資への支払い。差額はどこへ行くのか。
偽造金貨の素材製造費と流通コストに充てられている。
ナタンが断った「変な仕事」は、その素材を作ることだった。
断ったナタンは消えた。
ムーラン子爵は、この仕組みの「処理者」だ。
しかしこの仕組みを「設計した」のはムーラン子爵ではない。
この精密さは、別の誰かのものだ。
「では、この件の支払い命令に署名している記録は?」とミラヴェルが訊いた。
アンセルムが書類の中から一枚を引いた。
「ムーラン子爵の署名です。ただし」
少し間を置いた。
「承認の上位命令が、また署名なしです」
また、だ。
ミラヴェルは書類を見たまま、何も言わなかった。言う必要がなかった。第二章でも同じ構造があった。署名がない。用意周到だ。今回も、同じ形で同じ場所が空いている。空いているのが偶然でないことは、今日ここで確定した。
「粉の成分の照合は?」
「同じく。こちらの文書と、ほぼ一致します」アンセルムが別の一枚を出した。「偽造金貨の芯材として、過去の記録に登録された素材です。製造記録は王宮調達部門の扱いになっています」
全部が、一本の線の上に乗った。
アンセルムが書類を丁寧に重ね直した。指先で角を合わせながら、一言だけ加えた。
「ミラヴェル様。これは、私が一人で見た方がよい書類ではありませんでした」
言い訳でも告発でもなかった。ただ事実を言った。ミラヴェルはアンセルムを一度見た。
「見てもらう必要がありました」とだけ言った。
アンセルムが頷いた。それ以上は何も言わなかった。
記録院を出ると、外の光が強かった。
光に一瞬たじろいだ。石の中にいた時間が長かったせいで、六月の直射光が実際よりも明るく感じた。石畳の熱が靴底まで伝わってくる。記録院の内側の冷たさとは、全く別の季節の空気だった。
幽霊調達という言葉が、その日の夜も頭から離れなかった。




