第38話 床の粉
その日の朝、ヤニクが先に商館の前で待っていた。
勝手口の鍵を、ヤニクが開けた。
金属の擦れる音がして、扉が内側に動いた。ヤニクが先に入り、ミラヴェルが続いた。扉を引き戻して、外から見えないようにした。鍵は閉めなかった。すぐに出られるようにしておく判断だ、とミラヴェルは思った。言わなかったが、正しい。
中に入って、立ち止まった。
天井が低い。窓が小さく、縦に細い。六月の外の光が、窓枠に遮られてほとんど届かない。作業場と倉庫が壁一枚で繋がっていて、棚は空だった。木の棚板だけが残り、そこにあったはずのものがない。床には引き擦った跡がある。重いものを急いで動かした跡だ。
匂いがあった。
埃と、金属の冷たさと、わずかな油の気配。外の夏の熱気とは別の、閉じた石造りの室内の匂い。記録院の羊皮紙でも市場の香辛料でもない。何かが止まった場所の空気だ、とすぐに分かった。人が急いでここを離れた。荷物ごと。しかしそれ以外のものは、まだここにある。
「誰か来たことはありますか、この四日間?」とヤニクに聞いた。
「ないはずです。鍵は一つしかない」
「あなたが持っている分だけ」
「はい」
部屋の奥に進んだ。作業台がある。上は空だった。引き出しを一つ開けた。空だった。もう一つ。工具の跡だけがあって、工具がない。持ち出された形跡がある。急いでいた。しかし全部は持ち出せなかった、とすぐに分かる。
棚を一段ずつ確認した。何もない段が続いた。しかし棚板の表面に、かつて何かが置かれていた跡がある。輪の形をした染みと、擦れた跡。これだけの量が急に消えた。
目だけでは、足りない場所がある。
扇を取り出した。
開いた。
部屋全体に向けた。
大きな綻びはなかった。棚も台も壁も、あるべき場所にある。
しかし部屋の左端、床に近い場所に視線を動かしたとき、何かが重なった。目で見えているものとは別の、もう一枚の感覚が。床の隅の、粉が堆積している一点に、鑑定眼が静かに反応した。物として見えているものと、眼が拾う感覚とが、同じ場所で同時に来た。
これまでとは違う来方だった。
膝をついて、近づいた。
粉。
蝋燭の煙に混じった、金属の粉。金ではない。それよりも軽い、白っぽい何かだ。
床の隅に、薄く堆積している。大量に使う場所ではない。しかし確かに使っている。
帳簿の切れ端。
角に、見慣れない印が押してある。
王宮調達部門の内部表記だ。これは外には出ない書式のはずだ。
つまりここは、偽造の場ではなく、素材の供給元だ。偽造そのものはもっと「安全な」場所でしている。
これだけの情報が、一つの部屋に揃っていた。
粉を小さな紙に包んだ。帳簿の切れ端を、折らずにそのまま手に取った。扇を閉じた。
立ち上がって、ヤニクを見た。
「ヤニク。このことを、他の人間に話しましたか?」
「話していません」
「今日も、話さないでください」
「分かりました」
それ以上の問答はなかった。
ヤニクは理由を聞かなかった。聞かない、という判断が、答えを聞いたのと同じ重さで届いた。ミラヴェルはそれを確認して、先に扉の方へ歩いた。
外に出ると、六月の光が強かった。
目を細めた。商館の中の暗さが長かったわけではないが、外の明るさが予想より多かった。少し止まって、光に慣れるのを待った。
商館の並びに、変わった様子はなかった。隣の店の客の声が、変わらず続いている。何も知らない通りの音だった。
ヤニクが隣に出てきた。扉を閉めた。鍵をかけた。
「粉の成分と、帳簿の書式を確認する必要があります。明日、記録院に行きます」
「アンセルムさんに頼むんですか?」
「そうです」とだけ言った。
石畳が光を返していた。市場の外れの通りは、昨日の昼間より人が少なかった。ヤニクが通りの方を確認した。それから戻ってきた。
「何か、おれにできることはありますか?」
問いが来た。そのとき、すでに考えていたことがあった。ナタンがどこにいるか。探せるかどうか。それを言いかけて、少し変えた。
「ナタンがどこにいるか。心当たりがあれば確認してもらえますか?」
「二、三、確認してみます」
「お願いします」
言ってから、少し止まった。
「お願いします」という言葉が、いつもより自然に口から出ていた。その事実を一度確認して、それ以上は考えないことにした。今日確認しなければならないことが、まだある。
ヤニクが頷いて、先に通りへ出た。その背中を見ながら、粉を包んだ紙が外套の内側にあることを確認した。帳簿の切れ端が手の中にある。この二つを今日のうちに処理しておく。
歩き出す前に、もう一度商館の扉を見た。錠が下りている。それだけの建物に、戻って見えた。
翌日、記録院へ行く前に、一つ確認しておく必要があった。




