第37話 荷馬車の馬
市場に入って最初に気づくのは、音だ。
露店の呼び声が重なる。荷馬車の車輪が石畳を打つ。客の交渉が終わり、次の客の声がすぐに続く。金属の触れ合う音がどこかで鳴り続けていて、香辛料と獣と焼き物の匂いが一つの空気の中に混在している。記録院の石造りの静寂とも、夜会の魔法灯の整然とも、まったく異なる場所だった。音に重さがある。匂いに色がある。光の当たり方が不規則で、露店の天幕が作る影と、その隙間から差し込む六月の直射光が、一歩ごとに入れ替わった。
人の流れが早い。
ヤニクが一歩先を歩いていた。振り返らない。しかしミラヴェルが立ち止まると、どこかで足音の変化を聞き取って、ヤニクも止まる。人の流れのどこを歩けば詰まらないか、立ち止まるならどこが安全か、体に染み込んでいる動き方だった。この少年にとって市場は移動するための場所であって、観察するための場所ではない。ミラヴェルとは逆だ、と思った。
扇は外套の内側に収めたままにした。
この人の密度では意識が定まらない。発動させるなら対象が必要で、対象のない状態で開いても精度が保証できない。使わない判断は、前に夜会の人ごみの中で試みたときに既に学んでいる。あのときと異なるのは、今回は最初から開くつもりがないという点だ。持っているという事実だけで、今日の市場では十分だった。
市場の外れに近づくにつれ、音が薄くなった。
商館の並ぶ通りに入ると、露店の喧騒がやや遠くなる。鉄具の店、皮革の店、穀物を量り売りする店。それぞれの扉は開いていて、客の声がする。ナタンの商館のある場所に来た。ヤニクが昨日言っていた通りの場所だった。
扉に錠が下りていた。
看板は出ている。しかし扉は閉まっている。窓も閉じていた。隣の店では客が話し込んでいる。ナタンの商館だけが、周囲の流れから切り離されたように静止していた。
「三日前から」とヤニクが言った。「今日で四日目です」
ミラヴェルは商館の扉を、少し離れた場所から見た。鍵穴と蝶番の位置を確認した。扉の木の質感を確認した。何も言わなかった。
そのとき、荷馬車が一台、通りを横切っていった。
車輪の音が石畳を叩いて、商館の前を通って、通りの先に消えた。
ヤニクが動きを止めた。
「ヤニク」
馬車の消えた方向を見ていた。返事がなかった。
「ヤニク」
「……あの馬、近衛の馬に似てます。耳の形と、後ろ足の癖。おれは一度見た馬は忘れないので。」
「確かですか」
「はい」
短い間があった。
「荷台に何も積んでいなかった。空荷で来て何かを積むつもりか、それとも何かを下ろした後か」
「どちらだと思いますか?」
「速度が落ちていた。帰り道の馬の速度です。何かを積んだ後」
ヤニクは馬の消えた方向を見たまま、答えだけを言った。理由は言わなかった。
ミラヴェルは、商館の閉まった扉を改めて見た。
近衛の馬が霜市場の外れで荷物を積んで去った。ナタンの商館が四日間閉まっている。三日前の夜、ナタンは「変な仕事を断った」と言い、その夜に失踪した。父は「ムーラン子爵がヴァランの信頼する人間だ」と言った。兄は「霜市場の外れに非公式の私服が増えた」と言った。二人の言葉はそれぞれ別の場所から来ていたが、今ここで一点に向かって収束している。輪郭が鮮明になるほど、事実として確認しなければならないことが増える。
いつもより言葉がかかった。
整理の量が、事実の数に対して長すぎた。それに気づいたが、今は後にした。
「明日の朝、商館に入ります。案内をお願いできますか」
ヤニクが振り返った。
「合鍵があります。ナタンさんに預かったものが、まだあります」
「では明朝に」
「分かりました」
それで会話が終わった。
翌朝、商館に向かう前に、王宮の白廊を通る用事が生じた。
ヴォワール家への書類の受け取りが王宮側の窓口で発生したもので、父の代理として処理した。手続きは短時間で終わった。白廊を退出するために、廊下を歩いた。
白廊は長い。外交と謁見のために設けられた回廊で、縦長の窓から六月の光が一定の間隔で差し込み、石床の上に細い帯を作っていた。その帯を踏みながら歩いていると、廊下の先に人影が二つ見えた。
背の高い男と、一歩後ろに立つ若い女。
男の顔は遠目でも分かった。夜会で一度見た顔がある。ムーラン子爵。ヴァラン派に近い立場の人間で、王宮調達部門の統括者だ、と父が言っていた。
扇を、ゆっくり開いた。
ムーラン子爵の輪郭に、何かある。距離があるために形がはっきりしない。「何かを持っている」種類の欠けだということだけが見えた。近くに行けばもっと見える。しかし今日は近くに行く理由がない。
視線を少し動かした。
後ろの女の方へ。
今季のデビュー組だ、とすぐに分かった。立ち方がある。夜会に出始めたばかりの令嬢が持つ、まだ体に馴染んでいない姿勢の作り方だ。年は十七か十八か。背が高い。髪は淡い色で、耳の後ろで低く結ってある。
少女は父の後ろを歩いている。
一定の距離を保って、視線だけが父に向いている。
鑑定眼が拾うのは「整えた外面の下の緊張」、恐れとも違う。
見張っている、という感覚に近かった。
何かを知っているから見張っているのか。
何かを知りたいから見張っているのか。
どちらかはまだ分からない。
扇を、閉じた。
指が、わずかに遅かった。
ムーラン子爵たちは廊下の先に消えた。少女の名前を、帰り道に考えた。今季のデビュー組の名前をソフィーから聞いたことがある。ムーラン子爵家の娘の名前は、その中にあった。
カトリーヌ・ド・ムーラン。
父の後ろを「見張っている」少女が、白廊に何をしに来ていたのか。
ナタンの商館に、翌日入ることにした。




