第36話 慣例として、行かないだけだ
翌日の朝、起きてすぐに衣装箱を開けた。
朝の支度にかける時間は日によって違う。社交に出る日は長く、書類を読む日は短い。今日がどちらでもないことは昨夜から分かっていたので、何を着るかも昨夜のうちに決めてあった。
四年前に仕立てた、灰青の外套がある。記録院に通い始めた頃に作ったものだ。色が目立たない。飾りがない。ヴォワール家の紋章は縫い付けていない。丈は膝下で、動くときに絡まらない設計になっている。当時は記録院の石段を何度も上り下りするために、そういう仕立てを選んだ。今日も、似た理由で役に立つ。
袖を通して、鏡を確認した。
髪は高く結い上げない。耳の後ろで単純にまとめる。装飾品は小さい耳飾りだけにした。これがヴォワール家の人間だと一目で分かる要素を、なるべく削ぐ。完全に消すことは難しいが、減らせるものは減らしておく方がいい。
扇を手に取って、少し考えた。
霜市場に持っていく合理性がどれだけあるか。発動の条件が意識の集中である以上、音も匂いも情報量も多い市場の中では精度を一定に保てない。しかし、全く見えないわけではない。可能性だけは、残しておく方がいい。
扇を外套の内側に収めた。
貴族令嬢が霜市場に行くことは、作法の上では禁じられていない。
慣例として、行かないだけだ。
理由は二つある。
一つ、下層の場所が「品位を損なう」という階層感覚。
もう一つ、下層の場所では、貴族令嬢は目立ちすぎる。
後者は本当のことだ。
しかし後者を解決する方法を、私はヤニクに持っている。前者は今回、考えないことにした。
「今回は考えない」と決めて手を放すのは、これまであまりしたことがなかった。「分からない」のままにする。「後にする」と先送りする。それとは少し違う動作だ。どう違うかは、また後にした。
ソフィーを連れていくことを一度考えた。
三秒で止めた。ソフィーは目立つ。外套を替えても、声が大きい。笑い方が人の目を引く。人ごみの中に埋没するために作られていない人間を、今日の行き先に連れていくのは合理的ではない。
ソフィーは霜市場向きではない。そしてそれは、ソフィーの欠点ではない。
ヤニクが来るまで、まだ時間があった。
窓の外を見た。六月の光が、手入れされていない庭に真っ直ぐ落ちている。伸び放題になった木の枝が、短い影を石畳に落としていた。七年目の夏だ、と昨日に続けてもう一度確認した。確認して、何が変わるわけでもない。
お茶を一口飲んだ。温度は合っていた。しかし落ち着かない感じがあった。その感触の出所を考えかけて、後にした。今は、ヤニクを待つ時間だ。
ヤニクは昼の少し前に来た。
裏口を開けると、石段の上に腰を下ろしていた。昨日は立っていた。今日は座っている。その差を一瞬確認した。昨日より表情が整っていた。焦りが抜けたのか、時間があって落ち着いたのか、どちらかは分からない。
ミラヴェルの服装を一目見て、ヤニクが言った。
「それで大丈夫です」
評価ではなかった。確認の言い方だった。この少年は服の良し悪しを判断するために見ているのではなく、目的に合っているかどうかを確かめるために見る。
視線が一度、外套の内側にわずかに動いた。扇の場所を把握したかもしれない。何も言わなかった。
「案内をお願いします」
「はい」
「途中で寄る場所は?」
「ないです。まっすぐ行けます」
「混んでる時間ですが、ルートは分かってます」
「ええ」
それだけで話が終わった。必要なことが全部揃っていた。
玄関を出る前に、廊下を通った。
フェリクスの部屋の扉が、半開きになっていた。非番のときはあの部屋にいることが多い。出かける前に声をかけるつもりはなかった。廊下を歩けば足音がある。足音がすれば、フェリクスは気づく。
「ミラヴェル」
扉の内側から声がした。フェリクスが顔を出した。外套を着て、ヤニクと並んで立っているミラヴェルを見た。
「少し調べることがあります」とだけ言った。
フェリクスの視線が、ヤニクの顔に一度動いた。少年の顔を確認した。戻ってきた。
一歩踏み出しかけた。
止まった。
「……気をつけろ」
命令でも頼みでもない、ただの一言だった。「これは命令じゃなくて頼みだ」という普段の形がない。余分な言葉を加えなかった。それ以上何も言わず、フェリクスは扉の内側に引いた。
踏み出す前に何を考えていたのか。今のミラヴェルに知る方法はない。その事実だけ胸に収めて、考えるのを後回しにした。
外に出た。
六月の光が石畳に垂直に落ちていた。影が短い。冬の光が這うように横から入り込んでくるのとは違う。真上からの明るさで、石畳の目地の影がほとんど見えない。運河の方から水鳥の声がしなかった。夏の渡りが始まる時期で、春に戻ってきていた鳥たちはもう南へ向かっているらしかった。
ヤニクが一歩先を歩き始めた。
霜市場は、初めて来る場所ではなかった。




