第35話 断った仕事
ヤニクが来たのは、午前の早い時間だった。
扉を開けると、彼はいつもの位置にいた。裏口の石段の二段目。ただ、いつもと違うことが一つあった。彼は座っていなかった。立ったまま、背筋がわずかに張っている。急いでいるのではなく、落ち着かないのだ、とすぐに分かった。
私室に通して、椅子を示した。
ヤニクは座らなかった。扉の近くに立ったまま、私の方を見た。
お茶を一杯用意した。
自分の分ではなく、彼の前に置いた。ヤニクが少しだけ目を動かした。受け取るかどうかを測るような、一瞬の間があった。それから「ありがとうございます」と短く言って、カップを両手で包むように持った。
理由は後で考えることにした。
「三日前に会った時、変な仕事を断ったって言ってました。金になるが、人に言えないやつだって。昨日から市場に出ていない。ナタンさんは、そういう人間じゃないんです。断ったら引っ込む、そういう話じゃないって、おれはそう思う」
ヤニクの声は短く、要点だけを運んでいた。報告の形は普段と変わらない。しかし末尾の一語だけが違う。
「おれはそう思う」。この少年が「思う」を口にするのは、珍しかった。確認できる事実と、自分の判断を、普段は分けて届ける。今日はそれを混ぜた。
ヤニクの顔を見た。
扇は、開かなかった。
「変な仕事の内容は、聞いていますか?」
「素材を作ること、と言ってた。金属の、らしいです。それ以上は聞いていない」
「三日前というのは、何日の何時頃ですか?」
「夕方です。市場が閉まる前。場所はナタンさんの商館の前」
「商館は、今も閉まっていますか?」
「はい。昨日の朝から」
答えは全て短かった。この少年の報告は、いつも事実だけでできている。
ナタンは霜市場で商館を営む商人だ。三日前に断り、昨日から閉めている。
ナタンが「人に言えない仕事を断った」という事実は、彼が誠実な人間だということを示している。断れる人間は消されることがある。そしてヤニクは、その人間を心配してここに来た。ヤニクがここに来なければ、私はナタンの失踪を知らなかった。ヤニクが「おれはそう思う」と言わなければ、私はこの件を今日の問題として扱わなかった。
この構造を、私は一応、記録しておく。
「ナタンの商館の場所は、分かりますか?」
「分かります。案内もできます」
「明日の昼に、案内してもらえますか?」
ヤニクが少し間を置いた。
「ミラヴェルさんが、来るんですか?」
「私が行きます」
もう一つ間があった。今度の方が少し長かった。ヤニクが何かを言いかけて、止まった。
何を言いかけたのかは、分からない。
「分かりました」とヤニクが言った。お茶をひと口だけ飲んで、カップを丁寧に置いた。
「昨日の市場、他に変わったことはありましたか?」
「近衛の私服が、いつもより多かったです。二人組で動いてた。場所は市場の外れの方」
市場の外れ。
ナタンの商館がある辺りだ、とヤニクは言わなかった。必要がないと判断したのだろう。
「分かりました」
ヤニクが立ち上がった。扉まで歩いて、一度振り返ったが、何も言わずにそのまま出て行った。
足音が廊下を遠ざかり、階段を降りて、聞こえなくなった。
カップがテーブルの上にある。ヤニクが置いていったものだ。ひと口だけ減っていた。
翌日の昼まで、準備をすることがあった。




