第30話 床に落ちた書簡
マルグリットの声は、低かった。
大きな声を出す習慣がない人の声ではなく、今は大きくしたくない人の声だと、最初の一言でわかった。三週間、誰かに声を聞かれることを意識して話してきた人の声だ。廊下に声が漏れない音量を、体が覚えている。
椅子の位置を変えた。部屋に入ったときより少し前に出た。私との距離を、マルグリット自身が縮めた。その動作は無意識に見えた。話す準備として、体が先に動いていた。
自分の椅子は動かさなかった。マルグリットが縮めた分だけ、距離が縮まった。これ以上縮める必要はない。この距離が今の二人に合っている。
「……ランベール様の、書簡を見てしまったんです。偶然に。婚約の挨拶にいらした日、書簡が床に落ちて——見るつもりじゃなかったけど、書いてあることが目に入って」
黙って聞いた。
「床に落ちた」。偶然だった、と言っている。その言葉に綻びが出なかったことは、扇を開く前に既にわかっていた。マルグリットは嘘をついていない。見ようとしたのではなく、見えてしまった。その区別が、この告白の核にある。
書簡に書いてあったことをマルグリットが語った。
声の速度は一定だった。速くも遅くもない。何度も頭の中で繰り返してきた内容を、ようやく声に出している速度だった。三週間、誰にも言えなかったことを、初めて言語化している。
内容を聞きながら整理した。
ランベール家からフォンテーヌ家への要求。フォンテーヌ家が持つ王都郊外の土地の一部を、婚姻に際してランベール家へ移す。それだけなら婚姻条件の交渉として成立する。問題はその次だった。その土地に関して、王宮の台帳には現在の実測より小さい数字が記録されている。婚姻後も、その誤った数字を維持することをランベール家は要求していた。フォンテーヌ家が虚偽の記録を共同で維持する形にする、という内容だった。
「父に言ったら、最初は怒ってくれました」とマルグリットが続けた。「ランベール家に確かめると言って出ていって。でも次の日から、態度が変わって」
変わり方の説明を、マルグリットは少し迷ってから言った。「怒っていたのが静かになって。私に、おまえは何も見ていない、と言って。それから鍵がかかりました。」
「次の日から」、という時間の短さを、記録した。一日で侯爵の態度が変わった。その一日の間に何があったのかは、マルグリットには見えていない。しかし変わった、という事実だけが残っている。
マルグリットが付け加えた。「その後、ランベール様が一度いらして。父と話して帰られました。それからずっと、父は私に何も言わなくなって。」
ジュール・ド・ランベールが来た。白廊で見たあの男が、この屋敷に来た。侯爵と話して帰った。その翌日から、マルグリットの部屋の鍵が外から閉められ始めた。それは記録院で確認した四月八日の覚書の修正申請と、いくつかの点で符合している。ランベールが来た日が申請の日と近い可能性がある。
マルグリットはジュールが来たことを、淡々と話した。怒りではなく、疲れた声だった。
マルグリットが話し終えた。
部屋が静かだった。
廊下の外では、まだ侍女がいる。下の階では、夫人たちが話している気配がある。しかしこの部屋だけは、マルグリットの声が終わった後の静けさの中にある。
マルグリットがこちらを見た。白紙のような顔だった。感情がないのではなく、感情が出てくる前の状態に顔がある。問いかける前に、答えを恐れている人の顔だ。
「私はどうすればいいんでしょう?」
すぐに答えなかった。
これまでの事件でそういうことはなかった。問いが来れば、整理して、答えた。整理できない問いでも、「整理できない」という事実を記録して、次の手を考えた。今回は、整理する前に別の問いが来た。
この人に、どう答えれば正しいのか。
「解決の方法」を答えることは、できる。書簡の記録を取る。覚書の修正申請を封じる。マルグリットを証人にする形で不正を暴く。段取りは組める。しかしその段取りが「この人にとって正しいか」は、別の問いだ。
マルグリットが「どうすればいいんでしょう」と言った。「助けてほしい」とは言わなかった。「戦ってほしい」とも言わなかった。「静かにいたい」という意味が、その問いの中にあるかもしれない。あるいは全く違う何かかもしれない。
今ここで答えを出すことは、できない。
これまで問いが来れば、整理するか、保留か、記録するか、そのどれかで処理してきた。今回は処理しないことを選んだ。答えを出す義務を、今日のこの部屋では引き受けない。問いはそのまま持ち帰る。
「話してくださってありがとうございます。今日はここまでにさせてください」
それだけを言って、立ち上がった。
マルグリットが小さく頷いた。顔の何かが、わずかに緩んだ。答えをもらったからではない。聞いてもらえた、という緩み方だった。
廊下に出ると、侍女がいた。
「下でお待ちの方々にお伝えします」と侍女が低く言った。頷くと、侍女は階段の方へ先に歩いた。
廊下を歩きながら、何も考えなかった。
考えないことを選んだのではない。考えが来なかった。これまでは、場所を移動する間に次の手を組み立てていた。今日は来なかった。
ソフィーが階段の下で待っていた。
壁に寄りかかって、手を前で組んでいた。視線は廊下の先を向いていた。こちらの足音が聞こえてから、顔を上げた。こちらの顔を見た。何も聞かなかった。
カルヴェ子爵夫人がフォンテーヌ侯爵夫人とまだ話している。その間に、ソフィーは自分の判断でここへ来た。タイミングが正確だった。足音が聞こえたから来たのではない。そろそろ終わる、と思って来たのだ。
「帰りましょう」とだけ言った。
ソフィーが頷いた。何も聞かなかった。
フォンテーヌ家を出ると、春の日差しが強かった。部屋の中とは別の種類の明るさだ。マルグリットは三週間、この明るさの外側にいる。庭の向こう、塀を挟んだカルヴェ家の花壇が、壁の上から少し見えた。整えられた花の縁が、白く光っていた。
ソフィーが隣を歩いている。まだ、何も言わない。「どうすればいいんでしょう」という問いを、持ったまま歩いている。
問いは、まだそこにある。答えがないまま、持ち歩いている。
夜、私はまだその問いを持ったまま、机の前に座っていた。




