第26話 白廊の婚約者
王宮の白廊は、名前の通りに白い。
石造りの廊下が一直線に続く。窓が等間隔に並んでいて、今の季節は正午前後の光がほぼ直角に床へ落ちている。光が斜めにならない。影が短い。記録院の羊皮紙の染みた暗さでも、夜会の広間の琥珀色でもない。昼の石の白さだ。
足音が響く。絨毯がない廊下では、靴底が石を踏む音がそのまま壁を伝う。遠くから人が歩いてきても、姿が見える前に足音で距離がわかる。これは観察に有利な条件だ。
白廊を使う人間は、一定の種類に限られている。王宮に出入りできる貴族か、その随行者か、あるいは職務上ここを通る必要がある人間だ。目的のある足音と、用のない足音は違う。この廊下に用のない足音は、ない。
目当ての人物がどの時間帯に白廊を通るかは、事前に調べてあった。昨日のうちに父の書斎の資料で王宮の主要な行事日程を確認した。今日の午前、白廊が使われる会議が一つある。ジュール・ド・ランベールはその会議の出席者名簿に入っていた。会議が終わればこの廊下を通る。
ソフィーが隣に立った。
「緊張しているのですか?」
「少し」とだけソフィーが言った。「こういうの、初めてだから」
白廊を行き来する人間の大半は男性だ。令嬢が二人、廊下の壁際に立っているのは目立つ。しかし春の今の時期、王宮への挨拶回りで若い女性が訪れることは珍しくない。説明が必要な光景ではない。
「来たら、マルグリット様のご様子が心配で、とだけ言えばいいです。あとはジュール様が話します」
「私がどこまで聞いていいの?」
「会話が自然に続く範囲で。深く踏み込まなくてかまいません。踏み込みたそうに見える必要もありません。ただ、心配しているという事実を見せれば十分です」
ソフィーが少し考えるような間を置いてから頷いた。白廊の廊下に並んで立っていると、二人の足音が石の床に同じリズムで響いていた。
「ミラヴェルは?」
「少し後ろに立っています。同行の者として、それ以上の役割はありません」
ソフィーが頷いた。
足音が変わった。
一人分の足音ではなく、二人から三人分の音が混じっている。廊下の角を折れて、数名の男性が歩いてきた。その中の一人、礼装の整った二十代半ばの男性が、ジュール・ド・ランベールだった。
資料で見た名前と外見の照合は、問題なかった。肩幅が広く、立ち姿が整っている。顔には特別な癖がない。公の場に出ることに慣れた表情をしている。
ソフィーが一歩前に出た。
「ランベール様。少しよろしいでしょうか。カルヴェ子爵家のソフィーと申します。フォンテーヌ侯爵家のマルグリット様と少し面識がございまして、ご様子が心配で伺えればと思っておりました」
ジュールが立ち止まった。同行の者たちが一歩距離を置く。
「ああ、カルヴェ家のお嬢さんですか。わざわざ。マルグリットは体調を崩していましてね。ご心配をおかけして申し訳ない。少し養生すれば戻ると思いますが」
口調は穏やかだ。表情も穏やかだ。礼儀として問題がない。
扇を開いた。
白廊での使用は夜会とも応接間とも違う。光が均一で、影が少ない。見る対象が明確に照らされている。その分、細部が見やすい。ただし廊下では扇を持つ自然な理由が少し弱い。換気でも涼でもない。しかし今は春の昼で、窓から差し込む日が石の床に熱を持たせ始めている。日よけとして成り立つ。
ジュールとソフィーが話しているのを、一歩後ろで聞いている。扇を持つ手は見えているが、廊下にいる他の人間の目には、ただの同伴者だ。観察の位置として申し分ない。
ジュールの輪郭を見た。
大きな綻びは、ない。全体に欠けているわけでもない。
しかし「心配している」という言葉の周囲にだけ、それがあった。
剥がれた、というより、最初からなかった場所のようだった。感情があるべき位置に、薄い空白がある。厚みがない。「体調を崩していましてね」と口にしながら、そこに「心配」の質量が乗っていない。言葉の形だけが、感情の抜けた場所に置かれている。
扇を閉じた。
ソフィーがもう一言二言話している。ジュールが答えている。「早く回復されるといいですね」「ご心配をいただいて」という内容だ。声の抑揚には問題がない。表情も変わらない。しかし鑑定眼が捉えたものは変わらない。ジュールの「心配」は、この廊下の石の均一な光の中で、厚みのない平面として立っている。
婚約者が姿を消した。普通の感情なら——会いたい、確かめたいと思うはずだ。しかしこの男は、会いたくない。
なぜか。
マルグリットが「存在していること」は知っている。しかし「会いたくない」
——知っているから、会いたくないのかもしれない。彼女に会えば、何かを知ってしまうから。
ジュールが軽く会釈して、先へ歩いていった。同行者たちもそれに続く。足音が廊下の先へ遠ざかっていく。
白廊を出ると、春の外気があった。
屋内の石の冷たさとは違う、日差しを含んだ空気だ。ソフィーが少し息を吐いた。緊張が解けた呼吸だった。
「ジュールさん、感じ悪くはないのに、なんか……変な感じがした」
ソフィーが歩きながら、どこか宙に向けて言った。私への問いかけではない。独り言に近い。
何も言わなかった。
変な感じ、という言葉は正確だ。ただ、言葉にする手前で止まっている。ジュールの「穏やかさ」の中に欠けている何かを、ソフィーの直感は捉えている。私にはそれが言葉になっている。しかしここで言う理由が、今のところない。
二人で並んで、王宮の門の方へ歩いた。
「終わった」とだけソフィーが言った。
「ありがとう」とだけ答えた。
白廊を歩いている間、足音が二人分になっていた。行きは三人だった。ジュールの同行者がいたからだ。帰りは二人。今日の仕事は終わった。
次にすることがある。ランベール家とフォンテーヌ家の間に、書類の上での動きがあるかどうか。婚約を巡る何らかの取り決めが、記録院の文書として残っている可能性がある。アンセルムに確認する必要がある。
婚約者が「会いたくない」理由を確かめるには、まず書類の上の事実を固める必要がある。感情の観察と文書の記録を重ねることで、初めて問いが問いとして成立する。
鑑定眼が見たものは、ジュールの内側の質感だ。それは証拠にならない。記録院に預けられない種類のものだ。しかし文書には記録が残る。その文書の記録が、今見たものと一致したとき、初めてそれは問いの材料になる。
ソフィーが「また何かあれば言って」と言って、分かれ道で別の方向へ歩いていった。
翌朝、記録院へ直接行った。アンセルムは第三書庫にいた。




