第24話 三週間の空席
広間に入ると、音が変わった。
廊下と広間とでは、空気の重さが違う。廊下は足音と外套の布が擦れる音で成り立っているが、広間の内側には音楽がある。弦楽器の低い響きが床を伝い、その上に会話の声が層を成している。扇の開閉音が、その層の縁で絶え間なく鳴っている。春の夜会の音だ。冬の間はもう少し重く、人が肩を縮めて動く音がしていた気がするが、今夜はそれがない。
光も違う。廊下の壁燭は白く細い。しかしこの広間の天井には魔法灯が七つ下がっており、それぞれが琥珀色の光を等間隔で落としていた。蝋燭の揺れとは違う、一定の温かさだ。春の花が飾り付けられた柱の根元まで、その光は均等に届いている。人々の白い手袋や扇の縁が、光の中で浮かび上がっている。
記録院の羊皮紙の匂いも、グロワール家の応接間の冬の日差しも、ここにはない。ここは別の種類の場所だ。
権力を持つ者と持たない者が、互いにどちらがどちらかを確認し合う場所だ。
外套を預けると、ソフィーがすでに隣に立っていた。
この位置取りは、いつからか自然になっている。以前は夜会に来るたびソフィーが私を探して声をかけていた。今は探す前に並んでいる。互いの動線が、どこかで揃ってしまっていた。ソフィーは気づいていて言わないのか、気づいていないのか、私には判断できない。
夜会が始まっていた。
フォンテーヌ侯爵夫妻はすでに到着していた。夫人は群青色のドレスで、壁際の婦人たちの輪の中心にいた。侯爵は離れた位置で数名の男性と話している。父の言っていた通り、この夫妻が公の席に揃って出ることは珍しい。それだけで場に一種の張りが生まれていた。
マルグリット・ド・フォンテーヌの席はない。
テーブルに名札が並んでいる。フォンテーヌ家の名前は夫妻の分だけ。今夜も、娘の分はない。
「ねえ、マルグリット・ド・フォンテーヌ、今日も来てないわ。三週間連続よ。体調不良って言われてるけど——変だと思わない? デビューしたばかりなのに、一番大事な季節を休むなんて」
ソフィーが私の耳のそばで言った。声は低く、音楽の下に紛れる音量だった。目は広間の別の方向を向いたまま。
私はさりげなく侯爵夫人の方に視線を向けた。
扇を開く。
夜会という場所での使用は、集中を要する。人が多い。光が動く。どこかで誰かが笑い声を上げ、弦楽器が音を変え、扇が揺れる。グロワール家の応接間でも、記録院の書庫でも経験しなかった種類の難しさがある。扇を開いていても、周囲には換気か涼を取っているようにしか見えない。その紛れ方を利用する。
夫人は笑顔だった。婦人の輪の中心で口元を緩め、相槌を打ち、完璧に整っている。笑顔に余計な力はなく、過剰でもなく、むしろ完成度が高い。
その輪郭の、胸から肩にかけての一点に、白く欠けた部分が走った。
一瞬、そこだけ布が剥がれたように見えた。次の瞬間には消えている。笑顔はそのままだ。夫人自身はそれに気づいていない。鑑定眼が見ているのは夫人ではなく、夫人と「体調不良」という言葉の間に生まれた、かすかな剥離だ。
扇を閉じる。夫人に視線ごと笑顔を向ける。夫人も笑顔を返す。
夫人は嘘をついている。「体調不良」は真実ではない。しかしそれだけでは何もわからない。娘を社交の場から遠ざけている理由は、無数に考えられる。病気の隠蔽、婚約の破棄、家内の問題——私はとりあえず、記録する。
ソフィーが小声で続けた。「なんか……場の空気が、変なのよね」
私は何も言わなかった。
変な空気。その言い方を、しばらく持ったまま立っていた。
フォンテーヌ侯爵は夜会を通じて、一度も娘の欠席について問われなかった。
問う人間がいないのではない。観察すればわかる。数名が侯爵に近づき、挨拶を交わし、社交的な話題を二往復して離れた。その誰もが、娘の名前を出さなかった。呼吸が変わり、視線がずれる。出そうとして、何かを察して引く。話題の回避は、慣れた人間ほど自然に行う。それがこの夜会の至るところで起きていた。
夫人の周囲も同じだった。
広間の奥の隅で、二人の婦人が扇の陰に顔を寄せていた。私はその位置にいなかった。声は届かない。口の動きだけが部分的に見えた。フォンテーヌ、という形の口の動きと、もう一方がかぶりを振る動作。それだけだ。
侯爵が部屋を横切った。移動の途中、一瞬だけこちらに視線が向いた。向いた、というより通過した、に近い。ヴォワール家の令嬢として登録されている私は、その視線の通過点に入っただけだ。侯爵の顔に特別な変化はなかった。
私は扇を開かなかった。
わかったのは、夫人が嘘をついていることだけだ。理由はその嘘の内側にある。この場所からは、それ以上見えない。
夜会の残りの時間は、情報を集めるよりも、場の空気の質を観察することに使った。どの程度の人間がこの欠席を「知っている」ように振る舞っているか。どの程度の人間が本当に何も知らないのか。その境界線を今夜の内に大まかに引いておく必要があった。
知っている側と知らない側の境界線は、侯爵夫妻に近い人間と遠い人間の境界線に、ほぼ重なっている。今夜わかったのは、そこまでだ。
帰宅後、自室に戻った。
お茶を用意させた。飲む前に温度を確かめる習慣がある。指の腹でカップの外側に触れる。
正しい温度だった。
今夜確認できたことを整理した。夫人の「体調不良」という説明は嘘だ。
マルグリット・ド・フォンテーヌは三週間、社交の場に現れていない。デビューから間もないこの時季に。問えない空気が場にある。なぜ問えないのか、その理由は夫人の嘘の理由と同じかもしれないし、別かもしれない。今の段階では区別できない。
次に確かめるべきことが三つある。
一つ目は、マルグリット本人の状況。現在どこにいるのか、自分の意思で欠席しているのか。
二つ目は、フォンテーヌ家がこの時季に公の席に出た理由。何かを外に見せる必要が生まれたとすれば、その何かが欠席と繋がっている可能性がある。
三つ目は、婚約者の態度だ。ソフィーが「三週間連続」と言った。婚約者がいるとすれば、その人間は三週間、どういう顔をしているのか。心配しているのか。心配していないのか。あるいは、知っているのか。
わからない、という事実を記録する。
お茶を一口飲んだ。まだ正しい温度だった。
夜会で扇を開いた後、日常の輪郭に残像が滲むことがある。今夜は軽い。お茶の湯気が、少しの間、揺れているように見えた。見えた、だけだ。
明日、ソフィーに確認することがいくつかある。
翌日、ソフィーが来た。珍しく、少し興奮した様子で。




