第23話 春の解け方
春になると、綻びが増える。
冬の間は雪が全てを覆っていた。染みも、亀裂も、積もった雪の下に隠れていた。
雪が解けると、街はその全てをさらけ出す。石畳の割れ目、建物の壁の染み、凍っていた運河に浮かぶ、冬の間に捨てられた何か。
人間も、同じだ。
春になると、隠していたものが出てくる。
——私はそれを、単なる観察として述べている。
四月の朝の光は、三月とは角度が違う。
冬の光は低く横から差し込んで、夕方でもないのに部屋の隅まで影を伸ばした。
今は違う。光が高いところから真っすぐ落ちてくる。窓の外、石畳が白く乾いている。
三月には水光りしていた石が、今は午前中の陽を横柄に照り返している。運河に水鳥が戻っていた。灰色だった冬の水面を知っている鳥たちが、今は低く飛んで翼の白さを見せている。
通りを歩く人間の外套が、一枚ずつ薄くなっている。城壁の上の旗が、冬の間は北風に真横に引っ張られていたのが、今は緩く波打つようになっていた。
ヴォワール家の庭の灌木に、まだ硬い蕾がついていた。
母が死んでから、庭の手入れを誰に命じるかを、誰も決めなかった。使用人たちは指示がなければ動かない。父は庭に関心を向けない。兄は屋敷の外に仕事がある。私は、あの庭に出ることがほとんどない。
それでも蕾はできる。紫がかった小さな突起が、整然とした枝の先にいくつも並んでいる。どの種の植物かを知らない。何月に咲くのかを、私はまだ知らない。知る機会が七年間なかった、と気づいたのは今朝が初めてだ。少し窓の外を見て、視線を戻した。
春になると、誰のものでもなくなった庭にも、何かが出てくる。
扇は閉じたままだ。
六週間が経った。
マルタン男爵の件は、記録院に参照記録として保管された。息子のルシアンが書類を処分した見返りに収入を得ていたこと、引き出しの底に残った数字の断片が補償基金の残高と照合できること、その二点が紙の切れ端と共にアンセルムの管理する書庫に収まっている。
ルシアンは収入源を断たれた。クレール夫人の「呪いによる死」という訴えは、立ち消えた。マルタン男爵が改竄を告発しようとする前に死んだという構図は浮かんでいる。ただし、誰が指示したかという問いには、まだ答えがない。
答えのない問いを保留のまま持ち続けることには、慣れつつある。問いは記録院に預けてある。積み上がっている。それで今は十分だと思っている。完全にそう思えているかどうかは、今朝は確認しないことにした。六週間という長さは、それを何度か繰り返すのに十分だった。
窓の外で、水鳥の一羽が翼を広げた。春の角度の光の中で、白さが一瞬、強くなった。
今は春だ。そして春は、綻びが増える季節だ。
夕食の席は三人だった。
四月に入って初めて三人が揃った夜だった。父は王宮の仕事が長引くことが多く、兄は警備の夜番が続いていた。三人でこの食卓についているのが今月初めてだと気づいたのは、席についてから少し後のことだ。
三人の分の皿が揃っている食卓を、当然のような顔をした異事として私は眺めた。燭台の火が三人分の顔を照らし、いつもより部屋が明るく見えた。
父が新聞から目を上げたのは、デザートの皿が運ばれてきてからだった。
「フォンテーヌ侯爵が今夜の夜会に出るらしい。珍しいことだ。あの男は公の席を好まないからな。しかも夫人同伴ときた。何かを見せたいのか、あるいは何かから目を逸らさせたいのか」
それだけ言って、食事に戻った。
父はそういう人物だ。政治の空気を嗅ぎ取る精度が高い。どの貴族が今何を見せようとしているか、誰が誰に何を伝えようとしているか、夕食でふと洩らした一言が翌日の王宮の動きと正確に一致することがある。その能力は本物だ。ただし、そこから先には続かない。
「何かを見せたいのか、見せたくないのか」と言ったところで止まる。何が見せられているのかを物証に繋げる、その一歩が踏み出せない。帳簿の数字も、文書の矛盾も、父の目には映らない。優れた嗅覚は、証拠の前で止まる。
フェリクスが、デザートの皿を見たまま言った。
「先週から、フォンテーヌ家の周辺の警備配置が変わった。外からではなく内側から要請が来た形で動いている。内部で何かあったのかもしれない」
言いかけて、止まった。
一拍の間があった。
何かに触れかけた、という種類の間だった。兄の視線が少しだけ動いた。右手のフォークの位置が、微妙にずれた。何か思い出そうとして、止めた、という動作に見えた。何が止めたのかは、視点の外側にある。
少し、待った。
「まあ、うちの管轄外だ」
父の「公の席に出る」という観察と、兄の「内側からの配置変更」という情報は、並べれば一つの問いになる。フォンテーヌ家の内側で何かが起き、それを外に見せる必要が生まれた。そういう問いだ。
しかし二人は並べない。
同じ食卓の上に置かれているのに、二つは別々のまま放置される。父は政治の匂いを嗅ぎ、兄は現場の変化を持ち帰る。二人とも正確だ。ただし、それを繋ぐという発想が、二人には起きない。二人は正確な部品を、正確な場所に置いたまま、立ち去る。
その組み立てを、今夜やるかどうかはまだわからない。
「今夜の夜会には参ります」とだけ答えて、食事を続けた。
父は頷いた。兄は少し眉を上げたが、何も言わなかった。
夜会の前、鏡の前に座った。
髪を結い上げながら、扇を手の中で持っていた。閉じたままで、特に握りもしない。ただ持っている。持ち慣れた重さだ。
グロワール家の件では、偽物の宝石があった。マルタン男爵の件では、死があった。それぞれに、事件の重心があった。
しかし今夜考えているのは、そのどちらでもない話かもしれない。
存在を消された人間がいる、という話だ。死体はない。しかし誰かがまだどこかにいるのに、「いない」ことにされている。姿を現さないことを強いられている。社交の場から三週間欠席し続けるデビュー直後の令嬢が、もしそういう状況に置かれているなら、それはグロワール家の宝石でもマルタン男爵の書類でもない、別の種の問題になる。
死は取り消せない。しかし「存在しないこと」は、誰かが意図的に作った状態だ。人間が作ったものは、人間が解くことができる。
ただし今夜それが確かめられるかどうかは、まだわからない。何の根拠もない観察だ。ただの夜会だ。侯爵夫妻が出席する。それだけのことかもしれない。
それでも夜会へ行く。父の観察と兄の情報が今夜の場所に繋がるかどうかを、自分の目で確かめるために。
鏡の中の自分が、扇を持ったままこちらを見ている。
扇を閉じた。
立ち上がって部屋を出た。
その夜の夜会で、私は三週間続く欠席に気づいた。




