第19話 書斎の鍵はいつ
男が一歩前に出た。
「ルシアン・ド・マルタンと申します。父がお世話になりました」
名乗ってから頭を下げた。礼の形が正確すぎた。社交的な立ち居振る舞いを習ってきた人間の動作だ。何かを表情の上に乗せようとしている。ミラヴェルは短く返礼した。ソフィーも隣で同じようにした。
正面から顔を見た。年齢の見当は玄関を出た時点でついていた。顔立ちはクレールとは違う。父のマルタン男爵の輪郭を受け継いでいるのだろう。
表情は穏やかに整えられていたが、目の周りが疲れていた。よく眠れていない人間の目だ。泣いた後の疲れ方ではない。何かを内側に抱えたまま夜を重ねてきた人間の目だ。悲しみと焦りが、同じ場所に押し込まれて混在している。
「ミラヴェル嬢、父の死について何かお分かりになりましたか。母が呪いだと騒いでいるのは……正直、迷惑しています。父は持病があった。心臓が弱かった。それだけのことです」
扇を手の中で開いた。
視野の端が少し変わる感覚がある。意識をルシアンに向けた。
綻びが見えなかった。
ルシアンが言ったことに嘘はない。父に持病があったこと、心臓が弱かったこと、持病を原因とした発作で倒れたこと。その三点はどこにも引っかかりがない。引っかからないとは、現実との乖離がないということだ。この人間は、口にしたことを信じている。
しかしその先があった。
全体の中に、一か所だけ密度の薄い場所があった。話の輪郭は整っているのに、内側のどこかだけが空洞になっている感触だ。嘘ではない。しかし全部でもない。省かれた何かが、その空洞の形をしている。空洞の輪郭だけが、整った話の下に静かにある。
欠けている。
何が欠けているかは、すでに把握していた。書斎の引き出しに貼り付けられていたものを剥がしたこと、その中身を誰かに渡したこと。その事実が、今のルシアンの言葉の中には入っていない。自覚のある省略か、無自覚の切り捨てかは鑑定眼には出ない。しかし空洞の形から見て、これは意図的に置かれた沈黙だ。
ミラヴェルは微笑んだ。
「そうでございますね。ご葬儀の折、書斎の鍵はいつ見つかりましたか。」
ルシアンの顔が、一瞬だけ固まった。
表情が動こうとした。答えを作ろうとした言葉が、出てくる前に、表情だけが先に固まった。その固まり方を見た。一瞬のことだったが、一瞬で十分だった。
それだけを見た。
「ありがとうございます。参考になりました」
ソフィーの方を向いた。ソフィーが動いた。二人でルシアンに短く礼をして、マルタン邸の門を出た。ルシアンが後ろで何か言いかけた気配があったが、足を止めなかった。
通りに出てから、しばらく二人とも何も言わなかった。
ソフィーが一歩分だけ遅れた。それからまた隣に戻ってきた。ミラヴェルは見ていなかった。足音でわかった。何があったのかを聞こうとした気配が来て、引っ込んだ。引っ込んでから、別の話題を探しているような間があった。
「今日の夕食、もう決まってる?」
「特段は」
「じゃあ寄り道していい? 近くにいいお菓子屋があって」
「少し急ぐところがあります」
「わかった」
それだけで終わった。ソフィーが何を見ていたのかはわからない。ルシアンの顔が固まった瞬間を見ていたのか、玄関を出る前のミラヴェルの表情を見ていたのか? どちらかまでは判断できなかった。何も言わなかったことの理由も、まだわからない。
霜市場の方へ曲がった。
三月の市場は、日が傾いていた。
間口の狭い商台が石畳の路地に沿って並んでいる。薬草と干し肉と染め布の匂いが交ざって、人の声が重なっている。昼よりも気温が下がっていて、吐く息が少し白くなりかけていた。
一月に来たときは薄い雪が残っていて、商台の端が凍っていた。今日は石が出ていて、人の往来が速い。季節が動いている。
市場の奥の路地に入った。右に折れた先、一段低くなった場所で、壁に背を預けた人影があった。
小柄だった。くせのある茶色い短髪が、顔の横に少し落ちていた。服は汚れの入った実用的な作りで、新しくはない。体格は小さいが、重心の置き方が身軽だ。近づいてきたこちらの気配に気づいていたはずだが、顔を上げるのが遅かった。気づいていないのではなく、反応を見せなかっただけだとわかった。
振り向いたとき、目だけが鋭かった。ミラヴェルを見て、次にソフィーを見た。一度ずつだけ、素早く確認した。それ以上の確認はしなかった。
「ミラヴェルさん」
「一つお願いがあります」
「なんでしょうか?」
「ルシアン・ド・マルタンの最近の金回りを調べてほしい。三ヶ月以内で」
ヤニクが少し間を置いた。「出所不明のもの?」
「そうです」
「わかりました。二日もらえますか?」
「はい」
ヤニクが頷いた。壁から背を離した。行くかと思った。しかし路地の奥へ向かう前に、一度だけ振り向いた。
「今日は顔色が悪いですよ、ミラヴェルさん。風邪じゃないですか?」
「風邪ではありません」
「そうですか」
それだけ言って、路地の奥へ消えた。
ソフィーがヤニクの消えた方向を少し見てから、ミラヴェルを見た。何かを言いかけて、やめた。
帰り道を歩きながら、ヤニクの言葉が耳の端に残った。
顔色が悪い。
言われてから確認しようとした。しかし自分の顔色を自分で確認する手段が、今は手元にない。ヤニクが根拠のないことを言う人間でないことは、これまでのやり取りで分かっている。気遣いの付け加えは口癖に近いが、見ていないものを見たと言う人間ではない。
では悪いのだろう。
なぜ悪いのか、という問いが来た。
扇の握り方が変わっていたことは、書斎を出るときに気づいていた。ルシアンの顔が固まった瞬間に何かが起きたのか、それとも書斎で紙の切れ端を手に取ったときから続いていたのか? どちらかはわからない。どちらかを特定しようとしても、手元の情報では足りない。自分自身の内側は、鑑定眼でも見えない。
問いを端に置いた。
顔色のことは、明日まで考えないことにする。




