第18話 絨毯の端
「マルタン邸に一緒に来てほしいのです」
ソフィーはカップを置いた。理由を聞かなかった。
「どういう格好がいい?」
「弔問に近い形で。派手でなければ」
「わかった。明日の午後でいい?」
「はい」
ソフィーがカップを再び持ち上げた。それだけだった。「なぜ私なの」も「何をしに行くの」も来なかった。
去年の春、ソフィーがヴォワール家に最初に来たとき、理由を説明しなければ動かない相手ではないことは分かっていた。今日、改めてそれを確かめた。
確かめた、という行為を、どう分類するかはまだわからなかった。
翌日、二人でマルタン邸に向かった。
クレール・ド・マルタンが玄関で出迎えた。
「遺品の鑑定のご相談でご伺いしました」とミラヴェルが言うと、クレールが頷いて奥へ案内した。
廊下を進みながら、ソフィーがクレールの隣に並んだ。
「奥様、ご無理をされていませんか。お顔の色が……先日よりいくらか楽そうに見えます」と言い始めた。
声の温度が変わった。お悔やみでも世間話でもない、ただ相手の状態を気にかけている声だ。クレールが立ち止まった。ソフィーの話す声が続いて、二人は自然に廊下の奥の客間の方へ向かう足取りになった。
ミラヴェルは廊下の途中で足を止めた。
「書斎はこちらで」とクレールに向けて確認してから、扉を開けた。
書斎に入ると、空気が淀んでいた。
窓が閉まったままで、三週間換気されていない部屋の空気だ。机と椅子と本棚がある。棚には冊子と書類の束が並んでいる。机の上には何も置かれていなかった。
フェリクスの巡回のとき、書類が広げてあったと言っていた。今はない。使用人が片付けたのか、別の誰かが片付けたのかは判断できない。しかしなくなったことは事実だ。
絨毯が床一面に敷かれていて、端が一か所だけわずかに浮いていた。
扇を開いた。
光の当たり方が、ほんの少し変わる感覚がある。部屋の端から端まで、ゆっくりと走らせた。
欠けがなかった。
棚も机も床も壁も、どこかが失われているという感触がない。引き出しから書類が除かれても、「あるべきものが除去された」としては見えない。この部屋そのものは変えられていない。
机に近づいた。
引き出しに向けた。
ひとところだけ、引っかかりがあった。
部屋全体にはなかった感触だ。表面の下に、別の状態の跡が残っているような薄い手応え。扇を持ったまま、取っ手を引いた。引き出しの中は空だった。
底を確認した。
剥がした跡があった。
底板の四隅に、薄い接着剤の痕が残っている。何かが貼り付けられていた。痕の形から見て、紙一枚か二枚だ。荒く引き剥がした痕ではない。道具か爪を使って、時間をかけて丁寧に剥がした跡だ。
扇を閉じた。
引き出しを閉め、床に視線を落とした。机の脚の並びに沿って絨毯の端を確認する。右前脚の近くで、絨毯の端が少し浮いていた。
膝をついて、手で端を押さえた。
絨毯と床板の隙間に、小さな紙があった。
一枚だ。横幅は指の幅ほど、縦は少し長い。引き出しから何かを剥がしたとき、端が破れて落ちた断片だろう。数字が並んでいた。
数字が五つ。
単位はクローネ。金額にしては大きすぎる。
補償金の支払い記録にしては……いや、待て。
この桁は、補償金ではなく「基金残高」の単位だ。
つまりこれは、支払い記録ではなく……残高の改竄記録の断片だ。
マルタン男爵は残高の異常に気づいていた。証拠を手元に持っていた。補償基金の残高そのものが改竄されているという記録の断片を、引き出しの底に貼り付けて隠した。死の直前か、もっと前か。それはまだわからない。しかし隠した。
書斎の鍵を最初に開けたのは息子だ。引き出しの底に気づき、貼り付けてあったものを剥がした。その中身を誰かに渡して、収入を得た。
残ったのはこの断片一枚だ。
紙の切れ端を持ち上げた。折りたたんで、ポケットに入れた。
立ち上がったとき、扇を持つ手に力が入っていた。気づいたのは廊下へ出ようとした瞬間だった。指を一度開いて、握り直した。
書斎の扉を後ろ手に閉めた。
客間の前で声がした。ソフィーとクレールが話していた。
クレールの声の硬さが、先ほどより少し取れていた。ソフィーが何かを話したのだろう。何を話したかはわからない。ミラヴェルは扉の前でしばらく待って、軽くノックした。
「少し早いですが、よろしければ」
「はい、どうぞ」
客間に入った。ソフィーが短くミラヴェルを見た。目の動き方で何かを確認しているとわかった。ミラヴェルは何も返さなかった。
クレールに向けて短い礼をした。「本日はありがとうございました。また改めてご連絡いたします」
「……何かわかりましたか?」
「少しずつ、整理しています」
ソフィーと共に席を立って、マルタン邸を出た。
玄関を出て、石畳の道に一歩踏み出したところで、後ろから声がかかった。
「ミラヴェル嬢」
振り向いた。
玄関の脇から、ひとりの男が出てきた。年齢は二十代の前半だろう。体格は中くらいで、姿勢に癖がない。服が少し改まりすぎていた。この邸に住む者の普段着には整いすぎていて、弔問の来客としては少しずれた装いだ。
帰り際、一人の男がミラヴェルたちを呼び止めた。




