第17話 第三書庫
記録院は、王宮から少し離れた中層地区の運河沿いにある。
外壁は石造りで、年数を経て灰みがかっている。正面の扉は重く、開けると蝶番が低い音を立てた。中に入ると、廊下が細くなる。
外の三月の空気とは別の温度があった。少し低く、乾いている。壁に何かが染み付いている匂いがした。羊皮紙と、何年分もの蝋燭の煙が石に入り込んでいる匂いだ。
一月にアンセルムに会ったのは白廊の保管庫だった。あちらは鑑定済みの宝石と財産記録のための保管庫で、蝋燭の明かりが均等に設けられていた。
記録院の廊下はそれと種類が違う。縦長の窓が間隔を置いて並んでいて、三月の午前の光が切れ切れに差し込んでくる。暗い区画と明るい区画が交互にある。文書のために作られた建物の採光だ。
ミラヴェルは廊下を奥へ進んだ。
職員が一人、正面の棚を確認しながら歩いていた。ミラヴェルを見たが、止まらなかった。来客が少なくないのだろう。二つ扉を通ると、廊下が細くなった。突き当たりが第三書庫だ。
扉を開けると、棚の間から背中が見えた。
細身で、少し猫背だった。眼鏡をかけていて、指先に羊皮紙の汚れがある。
服装は地味で、実用的な作りだ。袖が少し短い。動きやすさの方を優先した選び方だろう。
棚の前に立ったとき、書庫の中での立ち方と外での立ち方が違う人間が時々いる。アンセルムはその種類だった。棚と書類と記録の番号の間にいるとき、体の置き方が迷いのないものになる。
振り向いた瞬間、アンセルムの目がミラヴェルを認識した。
「ミラヴェル様、いらっしゃいましたか」
そう言いながら、既に棚の別の区画に手を伸ばしていた。挨拶と確認を同時にしている動きだ。
一月のときは挨拶してから少し間があって、どの書類が必要かを訊いてから棚を探した。今日はその間がない。来客の用件を読んで先に動く、この場所での立ち方だ。ミラヴェルは何も言わなかった。
書類の束が机の上に広げられた。アンセルムの指が紙を捌く。眼鏡の縁に触れながら順番を確認する。束が二つに分けられ、それぞれの先頭が手前に向いた。
「マルタン男爵の担当業務ですが、記録を確認しました。魔法被害補償金の支払い記録の照合業務です」
「照合とは、どういう作業ですか?」
「承認された補償申請の記録と、実際の支払い記録を突き合わせる作業です」アンセルムが紙の一行を指先で辿った。
「申請された金額と受取人が、支払い記録の側と一致しているかを確認する。この手順は記録院と王宮会計が連携して行うもので、照合の結果が双方に残ります。不正があれば、どちらかの記録に食い違いが出る仕組みです」
説明しながら、書類の次の枚を手前に引いた。説明の速度が自然に上がっていた。文書の構造の話になると、口調が変わる人間だ。
「……ミラヴェル様、一つ申し上げてよろしいでしょうか。この種の照合業務は、本来二人で行うものです。しかしマルタン男爵は、昨年の秋から一人で担当するよう命じられていた記録があります。……失礼、少し、気になりまして」
アンセルムが眼鏡を直した。言い過ぎたかどうかを測っているような間があった。
ミラヴェルはその間、何も言わなかった。
一人で担当させる。それは二つの意味を持つ。
一つ、作業を効率化するため。
もう一つ、矛盾を発見しても、報告先が一本になる。
つまり、握り潰しやすくなる。
「その命令の記録に、命じた者の名前はありますか?」
アンセルムが別の束を引いた。紙を繰りながら答えた。「上位命令の形式が使われています。しかし……署名が、ございません」
「上位命令の形式で、署名なし」
「はい。形式は整っています。命令があったこと自体は記録に残っています。しかし誰が命じたのか、追える記録が……ありません」
署名がない。
形式を整えて、名前だけ消した。形式が残っているから命令の存在自体は消えない。しかし責任の所在だけが切れている。これを意図的にできる立場の人間は、王宮の中での位置がある程度絞れる。ただし今の段階では、絞るところまでで十分だ。
「補償金の基金残高に関する記録は、この書庫にありますか?」
アンセルムがわずかに動きを止めた。「基金残高の方、ですか? 支払い記録ではなく」
「はい」
「……少しお待ちください」
書庫の奥に入った。棚の番号を確認して、別の区画を引き出した。戻ってきたとき、持ってきた束が先ほどより厚かった。
「基金残高の記録はこちらです。ただしこの記録が最後に正式な照合を受けたのは、三年前です」
「三年間、照合されていない」
「申請業務と支払い照合は定期的に行われています。しかし残高の照合は別の手順で、担当者も別に設けられています。その担当者が、三年前から変わっていないことは確認できます」
アンセルムが眼鏡の縁に触れた。何かを言いかけて、止めた。今度は言い過ぎを測っているのではなかった。気になっていることが一つ増えた、という止まり方だ。
「残高の担当者の名前を、確認していただけますか?」
「……少し時間をいただけますか?」
「はい」
アンセルムが書庫の奥に戻った。
ミラヴェルは壁際に立った。棚が天井近くまで並んでいる。書庫の中は静かで、紙の重さがあった。白廊の保管庫は整然と管理されていた。鑑定済みの品と財産の記録が一か所に収まっていた。
ここは種類が違う。王国が動かしている金の流れの記録が、年ごとに積み重なっている場所だ。何かが変わっていれば、ここに跡が残る。跡が残るから、消したい人間が命令を出す。そして名前だけを抜いていく。
アンセルムが戻ってきた。
「残高の担当者を確認しました。……申し上げてよろしいですか?」
「はい」
「マルタン男爵の名前が、ございます」
ミラヴェルは何も言わなかった。
補償金の支払い照合を一人で担当させられ、基金残高の照合まで一人で担当させられていた。補償基金に関わる全ての数字を、一人の人間が見ることのできる状態に置かれていた。
それは効率化ではない。矛盾を発見できる人間を一本に絞り、報告の流れを制御できる仕組みだ。そしてマルタン男爵はその仕組みの中で、何かに気づいた。
「ありがとうございます。今日確認したことは、私以外にお話しにならないようにしていただけますか?」
「……はい」
返事は短かったが、迷いがなかった。
廊下を戻るとき、運河沿いの小さな窓から外が見えた。水面が三月の光を返している。冬の間は水が濁っていたが、今日は少し澄んでいた。
次は、書斎を見る番だ。




