裁判官オルタンス・ヴィエンヌ
初公判の日、俺は裁判所の控室で買ったばかりの朝刊を読んでいた。読んでいたのは王太子一家の観劇の記事だ。写真も載っている。
「先生、大丈夫でしょうか」
依頼人が不安を訴える。
「大丈夫ですよ。今日はヴェルトリ様が証言することはまずありません」
俺はそう言って依頼人を安心させようとしたが、やはり上手く行かなかった。
「でも相手はローラルドを証人として申請しているんですよね」
裁判の公平を保つため、原告側も被告側も法廷に呼ぶ証人は誰かを、あらかじめ相手に伝える義務がある。
「原告側はヴェルトリ様が嘘をついていたこと、今の職場を退職したら結婚後の生活の手段がないこと、これらを指摘すれば勝てると踏んでいるのでしょう」
普通ならそれだけで十分勝てる。
「本当に大丈夫なんですか」
「対策はしていますよ」
依頼人はまだ不安だったようだが、開廷五分前になったので、係員にうながされて、俺たちは入廷した。
原告側の席には二人の男女がいた。サクローナ伯爵とオルレード弁護士だ。傍聴席を見ると十数名の傍聴人の中に、クローディアとエルヴィスの姿が見えた。
「開廷前に原告側に確認します」
そう発言したのは裁判長のオルタンス・ヴィエンヌ判事だった。我が国初の女性裁判官で、かなりの堅物として知られている。
「原告本人はなぜ出廷しないのですか」
婚約に関する裁判は、婚約を行っていた男女本人しか原告および被告になれない。家による圧力を可能な限り排除し、本人たちの意志を尊重するためだ。
「原告は心労による体調不良により、出廷できません。医師の診断書を提出します」
オルレード弁護士が淀みなく答える。そして係員に診断書らしい書類を渡す。係員はそれを裁判長のところに運ぶ。裁判長がそれを手に取ったところで、俺は挙手した。
「裁判長、その診断書の内容を一緒に確認させてください」
俺の申し出は異例なものだった。だから裁判官席と原告席は一瞬だが固まった。
「被告代理人、理由を述べてください」
裁判長が問う。
「この後の公判も原告本人が欠席を続けるのであれば、こちらの弁護方針にも影響が出るかもしれないと危惧しました」
全員が釈然としない様子だったが、断れる理由がない。
「被告代理人の要請を認めます」
そう言われて俺は朝刊を小脇に挟んで裁判長席に向かった。そして裁判長と一緒に診断書に目を通す。
「診断書には、原告は心身衰弱が激しく、直近の一週間は自室から出ていないと書かれていますね」
俺の確認に裁判長が答える。
「そうですね。ですが、それがなにか」
俺は脇に挟んでいた朝刊を差し出す。
「今朝の朝刊です。二面の記事をご覧ください。昨日、モンルジュ劇場で撮影された写真に原告が写っています」
法廷がにわかに騒がしくなった。すかさずカンカンカンという木槌の音が響く。
「静粛に!」
木槌を叩いたあと、裁判長はそう声を張り上げ、続いて原告席に声をかけた。
「原告代理人、こちらへ」
困惑した表情のオルレード弁護士がやってきた。
「原告代理人、被告代理人の主張が正しいか確認してください」
だがオルレード弁護士は答えられなかった。
「できません」
「できない? それはなぜですか」
「……私は原告と会ったことがありません」
更に法廷が騒がしくなり、再び木槌の音が追い打ちをかける。
「静粛に、静粛に!! 会ったことがないとは、どういうことですか?」
「原告の家族から、面会謝絶だと伝えられました」
今度は法廷にいる人間たちの視線が、サクローナ伯爵に集まった。当然、裁判長の矛先もそちらに向く。
「サクローナ伯爵、それは本当ですか」
裁判長にそう訊かれたが、伯爵はふてくされたような態度で、答えない。
「伯爵、答えてください。答えないと法廷侮辱罪を適用されるかもしれません」
オルレード弁護士にそう言われて、渋々だが伯爵は口を開いた。
「本当です」
「原告は昨日は劇場にいたというのは事実ですか」
裁判長が質問を重ねるが、伯爵は再び黙り込む。
「伯爵、正直に答えてください。ここで嘘をついても、調べればすぐにバレます」
再びオルレード弁護士に忠告されて、伯爵は重い口を開いた。
「娘は、ミリアナは、確かに昨日、友人たちと観劇をしていました」
法廷がいっそう騒がしくなる。そして木槌の音。
「静粛に、静粛に、静粛に!! 不規則発言をした者には退廷を命じます!」
裁判長がそう告げたら、さすがに法廷は静かになった。
「ではこの診断書の内容は虚偽なのですね」
裁判長による伯爵への追求は続く。
「……はい」
裁判長は診断書にある署名を読み上げた。
「診断書を書いたとされるこの医師は架空の人物ですか」
「我が家のかかりつけ医です」
「その医師が自発的にこの診断書を書いたのですか」
「私が頼んで用意させました」
裁判長の眼鏡が光った。小説ではそういう描写は何度か読んだが、現実でも光るとは知らなかった。
「全てはサクローナ伯爵が差配して行ったことだと、認めるのですか」
「認めます」
カンと一度だけ、木槌が響く。
「サクローナ伯爵は法廷を欺くため、虚偽の申告をしました。よって当法廷はサクローナ伯爵に法廷侮辱罪を適用し、十万ブランの罰金と本裁判の法廷への出入り禁止を命じます。なお虚偽の診断書を作成した医師に対しては事情を斟酌し法廷侮辱罪を適用しませんが、医師法違反の嫌疑ありとして検察庁に告発します」
さすがは堅物、容赦ないな。医師の方はとんだとばっちりだ。同情する。
「そして原告代理人、あなたは職務を遂行するに当たって充分な注意を払いませんでした。事情を鑑み弁護士会に懲戒請求はしませんが、口頭で注意します。処罰などはありませんが、注意を受けたという事実は記録に残ります」
「……承知しました」
オルレード弁護士は悔しそうな表情をする。それは構わないが、横目で俺を睨むのは止めてほしい。視線を合わせるのが嫌で傍聴席の方を見たら、クローディアが呆れたような顔を、エルヴィスが悪い顔を見せていた。
「原告が欠席したので公判は延期とします。本日はこれにて解散」
裁判長はそう告げると、最後に一度だけ木槌を振り下ろした。
法廷から控室に戻ると、依頼人が質問をしてきた。
「先生、このあとはどうなるんですか」
「裁判は延期になりましたから、裁判所の方で日程を調整し直して、やり直しになります」
「なぜ延期になったんですか」
「原告本人が欠席しているのに裁判をするのは不公平だからです」
「それは、そうですね。これで有利になったのですか」
「楽観できる状況ではありません。次の公判までに相手は立て直すでしょうな」
ここで邪魔が入った。
「マノワ弁護士、今お時間をよろしいかしら」
声のした方を振り向くと、オルレード弁護士がいた。声から誰かは判っていたが。
「オルレード弁護士、今は依頼人と……」
「私の方は大丈夫です」
依頼人が俺の声におっかぶせて答えてしまった。
「譲っていただいて恐縮です、フィゲロ・ヴェルトリ子爵令息」
俺は観念した。だからお貴族様は嫌いなんだ。
「ではヴェルトリ様、また後ほど」
俺はそう言って依頼人のそばを離れた。オルレード弁護士は何も言わず、俺に背を向けて歩き出す。ついてこいという無言の指示に従う自分がやや情けない。
俺が連れて行かれたのは、誰もいない別の控室だ。俺たちがあてがわれたのとは内装が全く違う。噂に聞く高位貴族向けの貴人室というやつだろうか。
「最初からこれを狙っていたの?」
唐突にタメ口で訊かれた。
「なんのことですかな。伯爵閣下が法廷侮辱罪に問われたことを問題にしているのでしょうか」
「全てよ」
「さっき起きたことが全て私の陰謀だとでも? そのようなこと、あり得ないでしょう。原告が観劇をしたのも、伯爵閣下が偽の診断書を用意したのも、オルレード弁護士が原告の顔をご存知なかったのも、全て私にどうこうできることではありませんよ。ただ朝刊を読んでいたら原告が写真に写っていることに気づき、それなのに病欠されるとのことだったので、診断書を確認させていただいただけです。ヴィエンヌ判事の裁定に私が口出ししていないことは、オルレード弁護士も見ていらしたでしょう」
中には正論を煽り文句と勘違いする阿呆もいるが、オルレード弁護士はさすがにそういう連中ではない。
「……そうですわね。確かに全てはこちら側の身から出た錆でしたわ。それは認めます」
言葉遣いが変わったな。
「なら、これ以上お話しすることはないと思いますが」
「ひとつ、お訊きしてもいいかしら」
「なんでしょう」
「なぜ原告の顔をご存知だったのですか」
「事前に調べていました。たまに替え玉が出廷することがありますので。そういうケースはオルレード弁護士もご存知でしょう」
オルレード弁護士は反論したそうだったが、さきほどの醜態を思い出したのか、それは思いとどまったようだ。
「今度は私の方からおうかがいしてもよろしいでしょうか。ただし被告側の代理人ではなく、かつての学友としてですが」
「……どうぞ」
「フィフィ、君の依頼人は誰だ。金を払った伯爵か、それとも婚約をしている令嬢か」
フィフィの顔から表情が消えた。養子だったときに何度か見たことがある、感情を周囲に悟られまいとする貴族特有の防衛反応だ。俺はフィフィの地雷を踏んだらしい。
「どうやら口が過ぎたようです。忘れていただければ幸いです。では失礼させていただきます」
俺はそう言い残して、その場を離れた。




