第六十一話 幸福を夢見る
がたりと馬車が揺れるのに合わせて、夫の肩が静かに揺れる。宿を出立して以降、何度も繰り返されるそれにニケはくすぐったいような気持ちになって大丈夫ですから、と口にした。
悪路というほどではないが雪のちらつく中、手綱を握る御者がなるべく馬車を揺らさぬよう気をつけて進んでいることは分かっている。馬車に乗り込む前に垣間見た御者の顔は、寒さだけではない理由で少し青ざめて見えていた。
――身重ゆえに帰路を急ぐのもよくないが、寒さに慣れない身を決して万全の態勢が取れるわけでもない宿場町に残すのもよくないだろうとは、ニケを診た医師の言だ。
結局ニケの熱が一晩で下がったのを幸いと、明朝、相変わらず雪が降る中一行は再び都を目指すこととなった。座面にも背もたれにもいつの間にか買い足されたクッションや織物が厚く敷き詰められ、心なしかぐっと狭く感じられるようになった馬車に乗るニケの向かいには、落ち着かなさげな夫とカマルが揃って座っている。
出立してからずっと寛いだ様子を見せない二人に、却ってニケの方が落ち着いてくださいと口を酸っぱくする有様だった。
「アルトゥーロ様」
「しかし……」
カマルはともかくとして、夫までもが過保護なまでにニケを気にかけているのには、正直驚いた。
けれども、よくよく考えればニケとは違って夫に弟妹はなく、義母が生んだのは夫一人だけだ。ひょっとしたら、妊婦が身近にあるということ事態が初めてのことなのかもしれない。
当の本人であるはずのニケにとっては、物心ついた時から毎年のようにお腹を大きくしていた母が家の切り盛りをしていたこともあり、夫ほどの心配はしていなかった。確かにまだ子が流れてしまうかもしれない時期ではあるが、クッションのおかげもあって馬車の揺れも随分と小さい。
何人もの子を産んだ母と、初産になるだろう自分とでは違うのだろうが、それでも夫ほどの心配をしていてはこれから数か月に耐えられるとは思えない。
「あまり気を張られていては、都に帰りつく頃にすっかり疲れ切ってしまわれます」
「そうだが……」
「今のアルトゥーロ様には心配事以外のお話も必要です」
きっぱりと言い切ったニケに夫の視線が逸らされる。らしくもない、子どものような仕草に、隣のカマルが笑うのが分かった。
窓の外の景色も随分と整備されたものに変わり、都が随分と近付いてきているのが分かる。急いだ分、離宮で予定していた通りに都に辿りつくだろう。
義父の体調はどうだろうか。屋敷に残っている義父に、早く家族が一人増えるのだと、伝えたかった。
(……家族が、増えるのね)
今は自分でも分からないほど微かな命を、産み落とす時が来るのだ。
いつかの夜に想った、家族をあげたいという願いが叶う気配に、ニケは息をついた。
――早く屋敷に帰りたいと、強く思った。
「お、白い鳩。いいことがありそうじゃの」
「……軍の伝書鳩が逃げ出しでもしたんだろうさ。呑気だな相変わらず」
笑いながら干し林檎を口に放り込むふくよかな壮年の男に、サイードは呆れながら指の節を鳴らした。
情勢がどうも怪しいと、あまり日を置かず登城することを望まれているサイードだが、一線を退いている以上はさしたる仕事があるわけでもない。
当の北に潜伏していると思しき不穏分子も、例年より深い雪に思うように動くことがかなわないのか、たまに入る情報に目ぼしい変化はない。軍の訓練の見学に来て士気の高揚に一役買ってほしいと言われることもある他は、こうして古い顔なじみと話すくらいしかやることがないというのが正直なところだった。
目の前で干した果実を口に運んでいる男もそうした顔なじみの一人で、軍務を司る大臣職にあるにもかかわらず前にも横にも突き出た腹をしている。若い頃から甘いものを殊更に好んでいたが、出世して戦場に出ることもなくなってからはそれが腹に蓄えられたに違いなかった。
とはいえ、サイードともに先王の下で数多の戦を経験したその武功は確かなもので、将軍になってもおかしくはないだけの実力があった男だった。
「近衛の先触れが戻ってきた。お前の息子夫婦も明後日の昼には都に着くだろう」
「相変わらず情報通だな。近衛まで把握してやがるとは」
「まぁそう褒めるな」
くつりと喉を鳴らして大臣は立ち上がる。ゆったりとした動きで手に取ったのは、報告書らしい羊皮紙の束だ。
それとは別に投げて寄越された地図は北方の国境付近のもので、見慣れた都市や街道の他に、いくつかの印が打たれている。一通り目を通したサイードは半眼になって頭をかきやった。
「おいおい、俺は戦はできても戦争はできんって知ってるだろうが。説明してくれ」
「相変わらず勘で生きてるのう。ま、いいが……最近北の方で獣人の動きが妙だ」
「獣人の?」
てっきり公爵一派の話かと思っていたサイードの眉根が寄る。記憶が正しければ、北の獣人たちはあまり人との交流を好まず、種族ごとに集落を作って暮らしているような閉鎖性があった。軍に傭兵として加わるような者も少ない。
かといって力の弱い者なのかと言えば逆で、都にも多い犬や猫のような獣人ではなく牛や鹿といった、大型の獣人が北には多い。数はそれほどでなくとも、それなりの勢力だったはずだ。
「公爵一派は根っからの貴族主義で、獣人嫌いだろ? 今までも取り巻きの貴族が獣人を奴隷のように扱ったり子どもを誘拐して売り飛ばしたりしちゃあ、近衛と軍に摘発されてたが……北のどっかの一族を怒らせちまったみたいでな、貴族憎しってなってる」
「おいおい……」
「ま、あちらさんにしたら貴族は貴族でひとくくりだからな」
厄介な話だと大臣はため息をついた。
今のところ大きな衝突はないとのことだが、ただでさえ不安定な北方にまた一つ火種が増えたことに違いはない。
(獣人の子どもを攫って売り飛ばして、なぁ……犬猫は愛玩用にってことだろうが、北の獣人……忠実な兵隊でも欲しくなったか……?)
かわいい孫の、あの子もそんな状況下に置かれていたことは、なんとなくだが察している。小柄な獣人はもっぱら悪趣味な貴族の愛玩用として人気だが、体格のいい種族の獣人なら、その目的は強靭な肉体と敏捷な身のこなしを活かした、手駒の育成といったところだろう。
体躯に恵まれている方とはいえないだろうカマルでさえ、同じ背格好の人間の子どもに比べ身体能力がずば抜けている。単なる力だけでなく、目や耳、鼻――そういった部分では獣人は人間の先を行く。
獣人を蔑む貴族でさえ、かつて戦争が絶えなかった時にはこぞって獣人の傭兵を護衛として雇おうと競い、高い金を積んでいた。戦場に出てくるような傭兵ともなれば、中にはそれこそ一騎当千という形容に相応しい獣人たちもいたものだ。
「そのへん、諜報は」
「公爵一派のこともあって、そう人数は割けんの。近衛からはまぁ無理だろう。軍の方から何人か……」
歯切れの悪い大臣に、まぁそうだろうなと同意して、サイードも一つ干した林檎を口に放り込む。かつては贅沢品だったこれを、今では好きなだけ食べることができる。それほど遠くに来たし、年月は流れた。
「老兵もとっとと退場と決め込みたいもんだがなぁ」
「『常勝将軍』様は昔っからそれだの」
二つ三つ干し桃を一気に口にして大臣が目を眇める。
長い付き合いなだけあって、サイードが昔からとっとと隠居したいだのなんだのと言っているのを聞いたことも、一度や二度ではない。
「そりゃ大層な志持って兵隊になったわけじゃなかったしな。自分の食い扶持が稼げてじーさんばーさんの面倒見れるくらいに出世できたらなぁと在りし日のサイード少年は軍の門を叩いたわけだ」
平民として育ったサイードにとっては国のためだ国王陛下のためだという志など、かけら一つもなかったと言える。元手もそんなにかからなくて、それなりに稼げる自身があったから兵士になった。
それだけの話だったのが、いつの間にか典型的な貴族のお姫様と結婚して、あれほど面倒だ関わるまいと思っていた貴族の当主になって、将軍になって。
「で、サイード少年には夢とかなかったのか?」
「夢なぁ……まぁ叶わぬからこそ夢は夢でいいもんなんだろうさ」
そう。
夢は夢のままであるからこそ美しい。
窓の外で白い鳩を捕まえる兵士の姿が見えた。
翌日、伯爵邸に戻ったサイードを出迎えたのは数日ぶりに顔を合わせる妻だった。
「あら、お戻りで」
「あぁ。……来客、というわけではないか」
わざわざ妻が玄関にほど近い場所まで出てきているということは、来客の予定でもあるのかと思ったが、それにしては装いが普段と変わらない。外出というわけでもないだろう。
サイードの言葉に微かに頷いて、妻ははらりと扇を開く。
「先ほどアルトゥーロの部下が、もうすぐ帰ってくると知らせに来たのです」
「予定より早いな」
大臣の口ぶりでは、帰りは明日のはずだった。遅れるでもなく早くなったということなら、何か良くないことがあったとは考えづらいが。驚きを口にしたサイードに、妻がまたたく。
軍の方で少し耳に挟んだだけだと付け足せば、そうですの、と返される。それきり二人の間には沈黙が落ち、妻の近くに控える古参の使用人達からは射抜くような視線が向けられた。
これは早々に部屋に戻るべきだろうか、と思った時、サイードの後ろで扉の開く音がした。
「旦那様と奥様が戻られました」
従僕が屋敷の主人の帰りを告げると、妻の顔が傍目にも明るくなるのが分かった。愛息子の帰りともなれば、常よりも華やいだ装いで出迎えたいというものなのだろう。
開け放たれた扉の間に、ニケの手を取りゆっくりと歩く息子の姿が見える。自分の足でしっかりと歩いているニケの後ろには、カマルもいる。サイードに気付いて耳をぴょこんと立てたカマルに頷いてやりながら、三人の歩みが止まるのを待つ。
立ち止まって初めてサイードに気付いたらしい息子の表情が、先程自分と顔を合わせた妻のそれに瓜二つだと思いつつ、軽く肩を竦める。そんなサイードを無視して、息子は妻に向かって頭を下げた。
「ただいま戻りました」
「よく帰られました。ニケさんも養生の甲斐あったようで、何よりです」
「はい。お義母様には留守中、ご迷惑をおかけしたことと思います」
息子にならって頭を下げたニケに鷹揚に微笑み、妻が扇で口元を隠す。
社交シーズンの本格的な到来と、様々な行事を控えている時期に当主夫妻が屋敷を空けている以上、その采配は妻が振るっていたはずだ。もとより伯爵家の女主人として手腕を振るっていた妻にとっては、重荷というほどでもなかったのだろうが。
息子と妻が話している間、ニケがサイードの方を気にしているのが分かって、使用人たちには気取られない程度の自然さを装いひらりと手を振る。
――が、さすがに息子には分かったようで、妻譲りの整った顔立ちにわずかに苦いものが滲む。隠そうとしているのはニケがいる分、気を遣ってのことだろう。
「――あと、嬉しいことが一つ」
「まぁ、何でしょう」
一度ニケを見て、息子の目に喜色が滲む。
「ニケが身籠っていると、医師が」
「まぁ…………まぁ! 本当なのアルトゥーロ、ニケさん」
「産み月は晩春になるだろうと」
息子の告げた報せに、一気に玄関先の空気が華やいだものになる。使用人たちもじっと控えていることができなかったのか、顔を見合わせて喜んでいる者の姿も見える。古くからの者は、堪えるものがあるのだろう。
――なにせ伯爵家の血縁の者が生まれるのは息子以来、二十数年ぶりのことだ。
ニケの手を取って吉報を喜ぶ妻も言葉が出ないのだろうか。その目が潤んでいるのは気のせいではないだろう。
妻が祖母になり、息子が父になる。
(まずは無事に生まれることを祈るばかりだな……)
まだ膨らんでもいないニケの腹を見て、サイードは目を閉じた。
慶事に沸き立つこの屋敷など、サイードが知る限り初めて目にするものだ。
サイードと妻との結婚は双方の望んだものではなく、息子とニケの結婚はどこか戸惑いの色が隠せなかった。そして妻の懐妊が分かったのは前当主――今は亡き妻の兄の、命の灯りが消えかけている、そんな頃合いだったのだから。
ニケと息子の子。
男だろうか。女だろうか。
「お義父様」
呼ばれて視線をニケに戻せば、はにかんだ、控えめな義娘が頬を桃色に染めて笑っていた。
幸せなのだと一目で分かる表情に、口が緩む。
「おめでとうニケ」