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五話:遁走

 

 植えた者は、収穫を見ない。収穫する者は、誰が植えたかを問わない。

 その間にこそ我々の土があるのだ。

 踏まれた土は語らず。されど、全てを覚えている。

 ――然らば同志よ、植えるものであってくれたまえ。


 私は手紙の末文を読み終えると、それを再び封筒に入れ、懐にしまい込んだ。


 ――


 数日前の話、時刻は正午を過ぎた頃だっただろうか。

 月次の報告書をまとめた私は、地下室に再び(おもむ)いた。鉄扉の(きし)みも変わらず、無論(むろん)、内側からのみ掛けられる鍵は掛かってはいなかった。地下の湿気も、暗さも変わらず、ただ、石段を降りる私に、あの男から声がかかることはなかった。

 地下室には誰もいなかったのである。


 中の空気は、いつもよりも冷たいように思えた。

 私は暗闇の中、手探りでマッチを擦り、ランプの芯に火をつける。一度か二度、失敗し、それから、灯った火の光輪が広がるにつれ、沈黙していた地下室の様子が見えてきた。

 もともと物のない地下室だったが、いっそう整頓されていたように思う。

 卓の表面は拭き清められ、椅子は奥まで戻されている。灰皿は空にして洗ってあり、私と男が先月、ここで紙煙草を吸った痕跡は、もうどこにもなかった。

 それから、卓の足元にシャンデリアの刻印が押された木箱が二箱、几帳面(きちょうめん)に上下に積み重ねられていた。中身は言うまでもない。


 卓の中央には消えたランプの他に、一通の封筒と、布の袋が置いてあった。

 私は片手で封筒の封を切りながら、もう片方の手で、布の袋を開ける。

 袋にはいくらかの硬貨が入っていた。持ち上げてみた感覚では、ちょうど、私が普段、ノートとの交換で受け取っていた金額よりも、少し多いくらいだった。


 今月分のつもりだったんだろうか。金額の(さい)を数えたところで、報告書を渡す相手が居ないのだから、私にはどうすることもできなかった。


 私はただ、封筒に入っていた一枚の紙を取り出し、薄ら()けた火で照らし、読んでいたのである。


 ――


 それからの数日、私は懲りずに度々、地下室へと足を運んでいた。


 最初は、たまの偶然の、行き違いだと思っていたが、そうでないと薄々気づいてからも、赴く私は不出来な密偵だ。

 約束が果たされなかった時点で、危機を察し遠ざかるべきである。けれど、それを理解しながら、不用心に近寄る私の動機と言えば、(ひとえ)に、生活の変化が受け入れられなかったからだろう。と、考えた矢先に、食い扶持の心配から目を背けようとしている自分がよぎった。


 それが徒労(とろう)に過ぎないと気づいたのは、手紙の追加もなく、新しい紙煙草も届かず、あの男が現れることもついぞなかったからである。布の袋も木箱も、私が最初に見つけた位置から動かなかった。


 ――そして今、私は屋根裏部屋の、前室の机で、新聞を広げている。

 オブサーバーが失踪した今。私の社会との繋がりは、もはやこれだけとなっていた。雑誌、新聞を読み漁り、鉛筆で気になるところに印をつける。密偵として行っていたそれが思いつく限り唯一の情報収集の手段である。


 政治紙、経済紙、大衆紙、地方紙まで、各社の新聞を読み漁った。

 とはいえ、シゾイストの一人が失踪したところで紙面に載るはずなどない、仮に密偵として始末されたとして、そもそも、シャンデリアの話題が上がること自体、ほとんどなかった。不意に、退屈な中央紙の三面記事を眺めていたとき、左下の小さな欄が目についた。


『政治犯五名、所定手続を経て処刑。詳細は治安当局発表の通り』


 私はそこを、鉛筆で囲った。そこに自分なりの解釈を書き込み、それから不穏(ふおん)な筋書きをこじつけて。

 それだけだった。


 ――


 唐突に、玄関の戸が叩かれる。

 長く、暗い階段を登った先。地上五階、屋根裏のこの部屋に、訪ねてくる者などいるはずもなく、私の頭の中には、いくつもの疑念と、懸念が浮かんではねじれ、巡っていた。

「家賃の徴収(ちょうしゅう)だ」――しかし、どうだ、扉越しに聞こえた声が告げたものは、ただ、無情な現実であった。

 もう、そんな時期か。訪問者の正体は四半期ごとの家賃の徴収に来る、取り立て人に他ならない。私は、部屋の奥の戸棚から小さな袋を取り、――ほかでもない、四半期の家賃支払いの為に、月割にした金額を報酬から貯めていた成果である。玄関へと向かう。

 それから私は取り立て人を無愛想に出迎え、眼の前で、硬貨を数えてやった。


 ――けれども、足りなかった。

 何度数えても足りなかったのである。

「ああ、少し、待っていてくれ」

 そう言って、戸を閉めようとしたが、取り立て人は扉に靴を挟み、そうはさせなかった。


 一瞬、取り立て人の虚偽が頭によぎる。次に物価の上昇が。だが、結局、足掻きも虚しく、同じ頭の中にある三か月前の微かな記憶が、その数字に偽りは無いと裏付けていた。

 ふと、視界の端で、私の、提出先を失ったノートを読んでいるスイを見つける。彼女は真新しいドレスをまとっていた。

 合点(がてん)がいった。

 彼女のドレスを新調したのは、つい先日。ちょうど、オブサーバーの失踪の前日であった。

 大きな帽子に合う、装飾の少ない、やや大人びたドレスを仕立てたのである。装飾を抑えながら美を演じようと思えば、生地に質が要る。店員の、小金持ちの見栄を満たすような、綿の産地や織りの伝統、柄の由緒だのといった蘊蓄(うんちく)は、私の記憶の片隅にも残ってはいないが、最後に提示された総額の大きさにだけは、驚いた覚えがある。

 そして、それを飲み込めたのは、明日の報酬への当てがあったからだという理屈ばかりが、明瞭(めいりょう)に残っているのである。


 その報酬がどうなったか。ノートはいまだ受け取られず、私も、報酬を受け取っていない。私は納得のいかないまま、その布袋を拝借することができなかった。


「おい」私が記憶を漁っていると、取り立て人が声をあげる。

 ――黙れ。


 だが、どうだ。私は先ほど新聞の端の一文を、鉛筆で囲ったではないか。確証は得られないが、確かめようもない。ならば、私の筆跡こそが、私にとっての納得に他ならない。

 そうだろう、オブサーバー。だから私に手紙と共に、布袋を置いたんだ。

 ――植える者になれ、刈り取る者は無情である、と。その言葉が、私に残したものであるなら、それは私への餞別であるはずだ。

「おい、払えないなら出ていってもらうぞ」

「黙れ!」


 ――ただ、無性に腹が立ったのである。

 私は理解し、腹を括り、次にすべきことを思いついたはずだった。しかしながら、気づけば私はそう言って、扉を無理やり閉めていた。

「ああ、出ていくさ」

 ――今の今まで、考えていたことは全て濁流に飲み込まれ、私はその勢いのままに扉に向かって吐き捨てた。


「悪いね。明日には出ていくから」

 こちらを見ているスイと目が合った。

 今日のところは引き払ってくれないか。と言う前に、取り立て人の気配はなくなっていた。


 その日の午後、私は荷物をまとめていた。スイも黙って手伝った。スイのドレスをトランクケースとボストンバッグに詰め、その隙間に、私のノートと、筆記具をねじ込んだ。私の衣服はもとより、一張羅の下になんとか着込める程度の量しかなかった。

 家具を売れれば、少しの足しにはなっただろうが、そんな猶予はなく、売れる程度の代物もなく、全て捨て置いておくことにした。


 結局、意気込んだ割に、荷造りは夕方頃に終わった。荷は、大した嵩にはならなかった。


 ――


 朝。霧の深い朝。


 私がトランクケースを持ち上げながら、もう片方の手をボストンバッグに伸ばしたとき、いつの間にか横にやってきたスイが、なにも言わずにバッグを両手で持った。

 私は空振った手の使い道を一瞬迷い、それから、スイの、まだ温かいマットレスを一枚、肩に担いだ。


 部屋を出て、長い階段を降りていると、不運なことに、ちょうど登って来る、お節介な隣人と出くわしてしまったのである。私は彼女の、面倒くさい噂話に身構えたが、懸念とは裏腹に、彼女は私に声をかけることをせず、黙って階段を譲った。

 私が顔を伏せて彼女の横を通りすぎてから、何やらスイと短く話しているように聞こえたが、私は足を止めず、先に進んだ。


 薄暗い中庭に差し掛かったとき、またも私は住人の一人に見つかった。――今日に限って妙に人と出くわす。彼女は私と決して目を合わせないよう、慌てて顔を背けたが、その目線が、()ぶくれした私の全身を鬱陶(うっとう)しそうに見ていることは丸わかりだった。やがて、小走りで私に追いついてきたスイを見つけると、途端に哀れみの表情を浮かべ、それから去る私の、いや、スイの背中に、小さく神の加護を囁いたような気がした。


 それから、私たちは集合住宅の、漆喰(しっくい)で飾られた正面口から表に出たのである。通りを歩く道中で、他の棟から出てきたであろう、似た境遇の連中を何人も見かけた。同じ道を歩む彼らが、どこを目指すかなど知る由もないが、きっと明るい方へは向かっていないのだろう。


 ――まあいいさ。私たちの行く先は、すでに決まっているのだから。


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