四話B:道化
「いや、然らず。神は、他ならぬ我々が殺したのである」――静かにコーヒーを味わうアリスンに、わたしはフェリクスのノートに貼られていた一節、いや、他ならぬ彼女の一節を暗唱して見せた。
「どうしてそれを」――アリスンが目を丸くして言う。
雑誌を架に戻したあと、すこしだけ打ち解けたわたしたちは、今一度、沈黙の中でコーヒーを味わっていた。
どうして、と問われれば、そこでふと、わたしの悪戯心が妙案を思いついたまで。としか言いようがない。
――
「わたしの連れ、あなたの論説がお気に入りみたいなんだ」
「さっき言ってた、フェリクスという方?」
「そう」
「なんたって、この一節に、鉛筆で二回、線を引いていたんだから」
「二回?」
「ええ。鉛筆の芯の書き味が、湿気で鈍いから二度引くんだって」
「気に入った節を大切そうに切り抜いては、自分のノートに貼って、その下に感想を書き加えていく」
「あなたの論考を評するときは、いつだって、この街への皮肉がセットだったよ」
アリスンは葉巻をもう一度手に取った。けれども口には運ばず、ただ指のあいだで回している。それから、ぽつぽつと、話し始めた。
『THE NEW ORDER』の表紙を捲ったとき、巻頭はいつも、小説家の書いた大仰な見出しだと。それから、醜聞と、中産階級の自尊心を撫でるだけの俗な論ばかりが、人気順を競って、我が物顔で並んでいると。
自らの論説は、そのずっと後ろの、きっと誰もページを繰らないであろうあたりに、小さな活字で押し込められているらしい。
「光栄だよ。光栄だけれども――」
彼女はそう言いながら、わたしの後ろの架に掛かる、その雑誌を見たような気がした。
「少なくとも、寄稿者、アリスン・キャベンディッシュの半分は、ボクのものではないから。受け取れるのは半分、皮肉の部分だけ」
「なら、もう半分は?」
「時代さ」
――
「ボクは女ながら、大学で哲学、社会学、政治経済を学んだ。もちろん始めは自分の意思じゃなかった。複雑な家庭の事情ってやつさ」
「けれど、学ぶうちに自分の言葉で語りたい。あまつさえ、人に伝えたいと、そんな欲をかいてしまった」
そう言ってアリスンは、葉巻を持った手で、店の中をぐるりと示してみせた。新聞を広げた紳士たちは、相変わらず議論に余念がない。一人が紙面を指で叩けば、向かいの一人が声を上げ、その隣では別の一人が、もっともらしく髭を撫でている。
「けれどボクに開かれていたのは、どれも婦人欄だった。確かに、通りで売られるような新聞社から声が掛かったときは胸を踊らせたさ」
「でも断ったよ。流行りの帽子のかたち、器用な社交辞令、菓子のレシピ。そんなものを書くために学んだんじゃない、と思ってね」――そう言う彼女は、どこか誇らしげだった。
「そして、最後に流れ着いた先こそ『THE NEW ORDER』、有り体に言えばゴシップ誌だった」
「だから結局、ボクは衒学と扇動に満ちた言葉を書いている」
葉巻を一吸い。それから、アリスンは急に背筋を伸ばし、片手を胸に当てる。
「教会の失墜!社会の欺瞞! 不穏な議会!」
道化を演じたアリスンはしばらく得意げにしていた。けれど、よく通る声に、こちらへ振り返った近くの客と目が合うと、たちまち肩を竦め、短い髪の下から覗く耳たぶを赤くして、咳払いを一つ。
「……こういうのが、好まれるんだ」
――ミシンを動かす手なら、女のものでも一向に構わないんだけれどね。小さな声でそうぼやく。
「でも、それを語るあなたは、なんだか楽しそうだよ」
「それはずいぶんと、他人事だね」
「さあね、わたしだって恥ずかしいよ」――なにせ同じ卓に着いているのだから。
アリスンは、なんとも言えない顔をして、それから、白い手の細い指で、髪を耳に掛けた。
「確かにボクは、雄弁に、煽動的に語っている」
「あの雑誌の求める言葉を使いながら――その裏で、秩序を名乗る欺瞞を、吊るし上げてやろうと思っている」
声は、さっきの朗誦とは打って変わって、静かだった。
「それが、ささやかな抵抗のつもりだった、けれど」――群青色のハンカチーフを再び取り出した、アリスンが少し身を乗り出し、わたしの口の横の、自分では気づかなかったお菓子の屑を払う。気をつけて食べたつもりだったのに、淑女の振りは、あまりうまくできてなかったみたいだ。
「そのボクでさえ、この世界の秩序にすっかり組み込まれているみたいだ」
「あなたの素敵なドレスが“スイ”の、あなた自身の意思で選ばれたものだなんて思いもしなかった。選んだ御方は趣味がいい、なんて言ってね」
「社会批判を女の癇癪と言わせないため、裏付けを求めるほど、この世界の文法に囚われていく――」
彼女の言葉は、諦観のようで、皮肉のようでもあった。
「結局、ボクの論考が師事した教授の権威で差し込まれたと、信じて疑わない人種となにも変わらないではないか!」
その告白は今日で一番、高らかで、そして演技がかったものだった。
――終幕。彼女は葉巻の火を灰皿で潰した。
「でもねアリスン。フェリクス、わたしの連れはあなたの洞察、それと諦観と皮肉が好きだって、よく言ってたんだ」
――「“ゴシップ誌という世界で繰り広げられる”からこその戯曲なんだって」
「ずいぶん他人事だね」そう言ってアリスンは静かに笑う。
「だって、他人だからね」
わたしが迷わず、この雑誌を架から取ったのは、この飾られた世界の中で、きっと一番、赤裸々に見えたからだろう。
――
外の色は先ほどとあまり変わりない。空が少し、黒くなったくらいだ。
けれども、コーヒーの冷め具合からすれば、もうそれなりの、時間が経っているのだろう。――あっという間に感じたけれど。
アリスンは胸ポケットから垂れる鎖を引き、銀の懐中時計を取り出して蓋を開けた。
それから、出したときよりも、少しばかり素早い所作で戻す。
「さて、ボクはそろそろ行かなくちゃいけない」
「うん、わかった」
「お勘定を」――アリスンがそう言うと、注文を取った給仕とは違う装いの、勘定係がやってくる。そして懐から取り出した硬貨で、わたしの注文分まで払ってくれた。
「いいの?」
「うん、ボクの自伝に付き合ってくれた、ささやかなお礼だよ」
瀟洒な言い回しはあいも変わらず。アリスンは立ち上がり、ジャケットの裾を整えてから、音を立てずに椅子を戻した。
「スイ」
「うん」
「また会えたら嬉しい」
「うん」
「お達者で」
「アリスンもね」
アリスンは手を軽く振ってから、店の出口の方へ向かっていく。
彼女の歩く姿を、店のなかの数人の客が、好奇の目で見ているのが分かった。彼女もきっと、それに気づいているのだろうけど、全くもって、気にしていないようだ。
その足取りは他ならぬ、アリスン自身のものだった。
「ねえ、アリスン!」
気づけばわたしは、はしたなく、声をあげていた。アリスンが一瞬立ち止まり、顔をこちらに向ける。
「あなたのカフスも、素敵だよ」
それからわたしは、冷めたコーヒーの残りを飲み干した。次があるとしたら、もっと、もっと、ミルクと砂糖を多く、注文しよう。お菓子はとっくに、食べ終わっていた。
席を立つ前。ふと、今はだれもいない向かいの椅子に目をやると、アリスンが座っていた椅子の脇、店の壁に、蝙蝠傘が立てかけてあった。黒い柄、銀の握り。
――懐中時計。カフス。アリスンの私物は銀だった。
わたしが窓の外を見ると、そこにはちょうど、走り出した旅客馬車の姿があった。
わたしは立ち上がった、椅子の鳴りも憚らず。それから傘を手に取り、店を出た。
無論、間に合うはずもなかった。外見よりも広い店内の、卓の間をかき分けて、わたしが店を出たときにはもう、馬車はとっくに、迷宮の影へと消えていた。
手に持った傘と、路地を交互に見ながら、わたしは再び、どうしたものかと立ち尽くす。――やがて、雨が降り始めた。霧の薄まったかわりに、大粒の雨が、白い光を斜めに引く。
不意に、硬い靴音が近づいてきた。
フェリクスだった。彼は雨に肩を濡らしながら、どこからともなく現れ、気づけばわたしの傍らに立っていた。
彼の視線は、わたしの顔から、わたしが握る傘へと移った。
わたしはフェリクスに、小脇に抱える木箱について尋ねようとした。けれど彼は何も尋ねず、黙ってわたしの手から傘を取り上げ、開き、それから、行こう、と短く言って、歩き始めた。
わたしはこの傘に持ち主がいること、それを返したいことを、言いたかった。けれどフェリクスが、わたしの背中に言った、面倒を起こすな、という言葉を不意に思い出し、面倒をひとまず自分の中に隠した。――傘の出どころをもしも聞かれたら、どこかで拾ったとでも言おう。
それから、彼は脇に抱えた木箱が濡れぬよう、傘を自分の頭の上にだけ差して、早足で歩いていった。
わたしは雨に濡れながら、彼の背中を追いかけた。
けれど、わたしの心は、雨になど気をくれなかった。心のなかで、わたしは誓う。
――いつか必ず、あの人に会う。そして傘を返す。




