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LAMB  作者: 堕姓名落
6/12

四話A:淑女


『ブルームズベリ』の扉を開けたわたしを、店内の温かい空気と、コーヒーと煙草の香り、人の声が、いっぺんに包む。

 けれど一歩入ったところで、その次になにをするべきか、わたしには分からなかった。なのでその場で立ち尽くし、ひとまず、店の中を見回していると、店の奥の、一段高い勘定台(かんじょうだい)に座る、貫禄(かんろく)のある人物と目が合い、それから、その人物は窓際の円卓へと目をやった。わたしはその視線をなぞるように、席へと着いた。


 ――


「何になさいますか」

「コーヒーを、ミルクと砂糖入りで」

 わたしは注文を取りに来た給仕に、そう頼む。

「あと、それを」

 それから、硝子棚に並ぶお菓子の中から、小さな焼き菓子を指した。名前なんて分からなかったけど、それが一番、飴色に輝いているように見えたから。

 給仕が去った後、わたしは卓の、大理石の天板の上に、さっき受け取った硬貨を広げてみる。けれど、コーヒーとお菓子に何枚が必要なのかは分からなかった。


 店の中は、通りから見たときより広く、天井からは円い硝子の照明がいくつも吊られていた。わたしは壁に掛かった鏡越しに、慣れない空間を、人々の振る舞いを、存分に観察した。


 客には紳士が多かった。顔の前で大きく広げた新聞越しに、声だけ飛ばして議論する者たち。二人で一冊の経済誌を(めく)り、相場の上下に声を上げたり黙り込んだりする者たち。隅の卓では、若い男が雑誌にかじりつき、その隣の卓では、きっとすっかり冷めているであろうコーヒーを前に、白い髭の老人が目を閉じていた。


 何人か交じる淑女は、ドレスに身を包み、店の中央のあたりに置かれた赤い布のソファへ浅く腰掛けて、談笑していた。一人が話し始めると、残りの者たちがいっせいに身を寄せて、なにかを(ささや)きあってから、声を抑えて笑っている。彼女たちの卓には紙もペンもなかったけれど、誰よりも、この店のことをよく知っていそうに見えた。――わたしも足を横に流してみたけれど、どうやっても靴底が床につかなかったのですぐに諦めた。

 皆、各々(おのおの)仕事に夢中で、誰もこの空間に場違いなわたしのことなど、気にはしていなかった。


 少しばかり手が暇になってきたころに、紳士の一人が、読み終えた新聞を()に掛け、次に雑誌を拝借している姿を見た。

 だからわたしもそれを真似て、自分の座る椅子の後ろ、壁沿いの架から、一つ、見覚えのある表紙の雑誌を取って開く。

 そして適当にページを捲っていると――「お嬢さん、お邪魔してもいいかな」

 不意に、女性が声を掛けてきた。


 彼女は若かった。たぶんフェリクスと同じくらい。ブラウンのジャケットの胸ポケットから細い銀の鎖を垂らし、同じ生地のパンツを履いていた。髪は耳の中程あたりで切り揃えられていて、女の人がそんなに短い髪でいるのを、わたしはあまり見たことがない。

 彼女は白く細い手を、わたしの向かい側の木の椅子の背に添えていて、その手首には銀のカフスが光っていた。

「ええ、どうぞ」

 わたしは、その、男装のような格好をした彼女にそう告げる。それから、あまりジロジロと見るのも失礼かと思って、窓の外を見た。灰色の光のなかを旅客馬車が一台、ゆっくりと通り過ぎていった。

給仕さん(ヘル・オーバー)

 彼女は給仕を呼ぶと、なにやら凝った名前のコーヒーを頼み、それから、細長い葉巻を買っていた。


 ――


「ごめんなさいね、読んでいるところに。あなたの帽子があんまり可愛かったから、つい」

 妙に、芝居がかった口ぶりで、彼女はわたしの帽子について触れる。フェリクスが指さした帽子だ。わたしはそれを斜めに被っていた。

「あっ、もちろんあなた自身もとっても可愛いよ」

 わたしが言葉を返す前に、彼女は慌ただしく補足する。自分の言葉に自分で被せて、一人で盛り上がるその姿に、趣味も、雰囲気も、違うけれど、わたしはなんとなく、フェリクスを思い出していた。

(よそお)いも素敵、今日を群青で(いろど)るなんて、選んだ御方(おかた)は趣味がいいね」――あんまり会話を急ぐと、あとで話すことがなくなっちゃうよ。


 それから自分のポケットから得意げに、群青色のハンカチーフを出してみせた。


「ドレスを選んだのはわたしだよ、でも帽子を選んだのは」――ここまで言いかけて、わたしはフェリクスのことを、初対面の人物になんと伝えるか迷っていた。

 妙なことで悩むわたしはたぶん、変な顔をしていたと思う。

 けれど、あまり一人で考え込んでいても仕方がないと思い、向かいの席に目をやると、先程まであれだけ調子の良かった彼女はわたしなんかとは比べ物にならないほどに、ばつの悪そうな、まるで自分の言葉を喉につまらせたかのような、そんな表情を浮かべていた。


「帽子を選んだのは“連れ”だよ」

「もっとも、小さい帽子が似合うって言いたげだったから、こっちを被ってあげたんだけどね」

 結局わたしは“連れ”という言葉を選んだ。けれどあまりしっくりこなくて、つい、余計なことを喋る。


 それから彼女はなにかに納得したか、それとも腹をくくったかのように、今度は微笑みを浮かべて言う。

「あなた、とっても素敵だね。それと、お連れの方もね」


「フェリクスは、あまり素敵じゃないと思うな」

 彼女が選んだ言葉は“素敵”だった。それが何を指すのか、わたしにはあまりよく分からなかったけど、少なくとも、フェリクスは素敵という柄じゃないと思う。

 ――そこまで考えて、わたしはつい、その名を言ってしまったことに気づいた。けれど、あれほど(せわ)しなかった彼女が、これ以上なにかを言うことはなかった。

 きっと聞こえていない振りをしてくれたのだろう。


 それから、向かいの席の“淑女”は葉巻の煙を、わたしの顔にかけないよう、横へと吐いてくれた。


 コーヒーと、お菓子が運ばれてきた。飴色の焼き菓子を一口齧ったわたしは、その甘さに感動したけれど、あまりはしゃいではみっともないから、ほころぶ表情を悟られないよう、わたしも淑女の振りをした。


 ――沈黙。


 彼女がわたしに天気や物価の話を振り、それにわたしが短く答える、という応酬(おうしゅう)が何度か繰り返された。けれどもわたしにはその話題の広げ方がわからず、結局のところ再びの沈黙が訪れたのである。


 葉巻もコーヒーもあるんだから、話題がなくても退屈なんてしないだろうに。

 わたしはお菓子を頬張りながら、そんなふうに思う。けれど、向かいの席に目をやれば、やはり彼女は、わたしとの会話の入口を探るようにそわそわとしているじゃないか。

 ――だからわたしも、お菓子を飲み込んだ後の話題を考えてやる。そういえば、わたしはこのお菓子の名前を知らない。そうだ、それこそ彼女に聞けばいい。そこまで思いついて、ふと、彼女の名前をまだ聞いていないことに気づいた。


「そうだ、お嬢さん、お名前を伺ってもいいかな」

 けれど結局、先に沈黙を破ったのは彼女のほうだった。


「スイだよ」

「スイ、可愛い名前だね」――やはりわたしたちは、あまり噛み合わないみたいだ。聞き馴染みのない名前、とでも言えば少なくとも同意くらいはできたのに。


 可愛げのないわたしには、可愛いという感想が、どうしたって白々しく聞こえてしまった。無論(むろん)、彼女の目当てが、世間話をすることではないということに、わたしはとっくに気づいていたのである。ならば、せめてもの“正直さ”で、この不毛な足掻きを終わらせてやろうと思い切ったのは、わたしの、少しばかりの意地悪心(いじわるごころ)だったのかもしれない。


「そろそろ、本題に移ったらどう」――けれど、口にして、その言葉が思った以上に冷たい響きであることに気づき、もう一言だけ付け足した。

「あと、このお菓子の名前、教えてくれない?」

 わたしなりの、精一杯の歩み寄りだった。


 ――


「いや、ボクは結構“洞察力に富む”という評価をもらうんだけれどね。お嬢さんのほうが、よっぽど上手(うわて)だったみたいだ」

 わざとらしい口ぶりでそう言うと、彼女はその白く細い手で、自らの顔を扇いでみせた。

「白状するよ。その雑誌がね、気になったんだ」

 そしてその手は、わたしが膝の上に置いたまま、今の今まですっかり忘れていた雑誌、『THE NEW ORDER』を指さした。


「それにしても、この衒学(げんがく)扇動(せんどう)にまみれたゴシップ誌が、まさかこんなに可憐(かれん)な淑女に気を持たせるとはね」

 ずいぶんと大げさな物言いだ。けれどわたしには、彼女がまた一人で盛り上がってる、という以外の感想はなかった。――ならばせめて、わたしはそのひとり芝居に水を差さないよう、大人しく観察するのみである。

 衒学と扇動。フェリクスが言いそうな台詞だ、なんて思っているうちに、わたしはすっかり彼女を放って、自分の思索に入り込んでしまっていたらしい。


「あ、そのお菓子の名前はキプフェルだよ」

 演目の間を埋めるように、彼女はいつかのわたしの問いに戻ってきた。どうやらわたしが眠っている間に何幕(なんまく)か進んでしまっていたらしい。

「ごめんなさい、また失言。人の読んでいる雑誌を、そんな風に言うもんじゃないと思ってね」

 なんて言って、今度はしおれてしまった。本当に忙しない人。わたしはこの人の情緒の変わりようを、ただ面白がって眺めていた。


「気にしないよ。それにわたしの方からも訂正がある」

 わたしは膝の上の雑誌を、卓の上に置き直す。

「雑誌の読者は、むしろわたしの連れのほう、わたしはただ、横で眺めているだけなんだ」――少なくとも、あなたの情緒を乱すような、そんな素敵な同好の士ではないと思うよ。


 それから、彼女はコーヒーを二口か三口ほど(すす)り、やっと落ち着きを取り戻して言った。

「ボクったら一人で盛り上がっちゃって。恥ずかしいなぁ」

「眺めてくれるだけで十分(じゅうぶん)だよ」

 その返事は、妙に素直だった。

 彼女は、おもむろに葉巻を咥えて、それから大きく煙を吐く。彼女の葉巻は、フェリクスの煙草より、ずっと甘い香りがした。


「でもあなたが、言葉というものに誠実な人だってことは十分、分かったよ」

 そう言って、わたしも一口、コーヒーを飲む。一口で(とど)めたのは、わたしには苦すぎたからである。


「そういえば」

 カップを置き、わたしは思い出す。お菓子の名前はさっき教わったけれど、それを教えてくれた人の名前を、わたしはまだ聞いていなかった。


「あなたのお名前を伺ってなかったね」

 わたしも、彼女がしてくれたように、名前を尋ねてみる。

「申し遅れたね。ボクの名前はアリスン、ただのアリスンさ」

 ――ただのアリスン。

 奇妙に勿体(もったい)をつけた名乗り方だ。わたしはその名前に聞き覚えが、いや、どこかで見た覚えがある気がした。


 もしかして、「アリスン・キャベンディッシュ?」


 ――アリスンは葉巻でむせている、どうやら図星だったみたい。わたしは自分の顔にかかる煙を、『THE NEW ORDER』で扇ぎ、払っていた。


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