三話:紙煙草
「来たな」
石段を降りる私に、地下室の男が声をかける。オブサーバー。私はこの人物の、それ以外の名を知らない。男は私よりふたまわりほど年上で、やや恰幅のいい体躯に地味な仕立てのジャケットを着ている。旦那然とした風体は、地下室には似つかわしくないが、一度街へ出れば、私はたちまち、風景の一部として見失うだろう。そう確信を持てるほど、男は何度見ても記憶に残らない顔をしていた。整いすぎているのでもなく、崩れているのでもなく、ただ目に残らない顔である。
それが男の職務に適していることは、男自身が一番よく知っているはずだ。
「ああ、オブサーバー」
地下室の隅に卓が一つと、椅子が二つ。男の向かいに座るべく、私は手前の椅子を引きながら、卓の上の、油の切れかけたランプがわずかに照らす暗い地下室を見回した。地上に繋がる換気口が外の光を僅かに持ち込むが、外も大概薄暗い。卓の足元には木箱が置かれている。それが紙煙草だと分かったのは、見慣れた祖国シャンデリアの、産地証明の刻印が押されていたからだ。
私は湿気と、コーヒーハウスの貯蔵庫から流れ込んでくる香りの混ざった地下室の匂いに、顔をしかめながら座る。
「今月の分だ」私は鞄からノートを取り出し、卓に置いた。
オブサーバーはそれを手に取り、ランプを近づけ目を通す。
「私は好きだよ」
そう言って、ページを次々と捲る。時々立ち止まり、一、二ページ戻っては、また素早く目を通していく。全てのページを見終え、ノートを自らの鞄にしまうと、それと交換するように、煙草の箱を取り出した。
「まったく、私好みの立派な“アート”だ。君の癖字を読むことが、もはや私の趣味になりつつあるよ」
そう言って、箱から取り出した二本の紙煙草のうちの一本を、こちらに差し出す。私が受け取ると、男はマッチを擦り、私の煙草に火を付け、それから自分のものにも火を付けた。
地下室の冷たい空気の中で、煙草の火は暖かかった。私たちは最初の二口を無言で吸った。
――
「今年は帝国成立三十年の節目だ、様子はなにか変わっているかね」
「ああ、帝国府はずいぶんと熱を入れているみたいだ。戦後五年の節目との重なりもあって、帝都中央の大通りで連日行われている行軍訓練の様子が、盛んに報道されている」
「もっとも市井の関心がそこにあるかは疑問だけれども」私は続けた。
「生活物資の高騰が止まらず、庶民の生活は冷え切っている。一方で、嗜好品の価格は概ね下がっているようで、貿易商の嘆きを、街角で小耳に挟むよ」
私は自分の紙煙草を見つめた。煙が立ち昇っていた。やはり、紙煙草はシャンデリア産が美味い。大陸のものは新聞臭くてかなわない。
「願わくば、これももう少し安くなってくれればいいんだが」
「君はずいぶんと残酷なことを言ってくれる」オブサーバーが苦い顔をして笑う。
「なに、生活者の嘆きさ。その心は?」
「帝国の兵士は、いまや戦地にはいないだろう。一日に何百万本も紙煙草を嗜む者は、もうどこにもいないんだ」
それからオブサーバーは祖国、シャンデリアの風景を語りだす。
戦時には、煙草畑の求人が至る所に貼られ、女も子供も総出で栽培していたと。島の南の港に、煙草の木箱が山積みになっていたと。それを人夫が汗を流し、ひっきりなしに訪れる交易船に積み込んでいた光景を。
――それがいまや、同じ港の倉庫の中、脇や裏で湿気っているということを。
「従属国の末路だな。輸出品の価格も、量も、すべて帝国の機嫌で決まるわけだ」情けない話だ。
「残念ながらそうだ」と、オブサーバーが言う。
「保護国の開発という名目で、一切の産業が整理された。田畑は山肌の煙草畑に一本化され、職人は帝国の建てた工場で働き、漁の権利も全て帝国の商社が抑えている。自分たちの食い扶持を自国のみで賄うことさえ難しい状況だ。君の世代では、もはや煙草以外の畑を知らないだろう。――だが」
「フィクサリオ君。これは確かに悲劇だ、だが我々の責任でもある。もっとも、君たちよりも古い、ちょうど私たちの世代の、だが。結局のところ、私たちは、恐れ、そして繁栄を求めて、自らを帝国に売り渡したんだ。もちろん全てがそうではない、他の選択肢があったかは分からないが、目を背けることはできまい」
一語一語を丁寧に、低い声で語るその姿は、私が初めてオブサーバーと出会ったとき、その男に見た無念と、同じものだった。
そして、祖国シャンデリアの現状を知ったときの虫の居所の悪さを、今久しく、ささやかながらに思い出した。その義憤と呼べるほどでもない小さな感情は、男のもとで密偵となった理由、私がラプチャーに来た理由の一つであったはずだ。
煙草の灰が落ちる。
「諸国時代に始まり、征服の歴史は三百年以上前に遡る」私はそう言って、静かに立ち上がる。
「私たちは、犯された女の子供だ。歴史を、伝統を奪われ、私たちの神は私たちを見放した。男は卑屈に閉じこもり、女は征服されることを喜んだ。服従こそが伝統となったんだ」――そして征服者である諸国時代の一国こそが、ユーフォリア帝国の、ラプチャーを擁する中核州に他ならない。
地下の煉瓦が、私の声を反響させた。私は自分の声だけを聞きながら続ける。
「そして、その事実が、今の時代において、シゾイスト民族を名乗る私たちの奥底に、深い絶望として、横たわっている」
「結局のところ、民族自決と民族の存続という命題は、つくづく食い合わせの悪いものだ。社会とはしばしば獣に例えられるが、まさにそうだ。それは理性や秩序の産物ではない、思想の先行する余地などない、人間の本性が生み出した獣なのだ」
息が切れ、沈黙する。いつしかだいぶ短くなっていた煙草の火が、指に迫り熱い。私は座りながら、それを灰皿に擦って、火種を消した。
「その情緒の変わりようには、いつも驚かされるよ」
オブサーバーが冗談めかして笑う。そして私にもう一本煙草をよこした。
「この情緒こそ、世相の移し鏡だ。熱狂しているかと思えば、次には嘆く、この街にしばらく住んでいるから、帝国人の真似がうまいでしょう」
「大したものだ」オブサーバーは新たな煙草を咥え、マッチで私と、自分と、順番に火を付けた。
「シゾイストの扱いに変わりはあるか」
私は答える。
「シャンデリアが従属国、いや保護国という名の外国であることが幸いして、帝国にとっての“私たち”には組み込まれていない。せいぜい従順で無害な労働者といったところだろう」
「もっとも、帝国人は大変みたいだが。戦争が終わり、同じ方向を向けなくなってから、帝国内の民族対立は激化の一方だ。もっぱらアルカニストが槍玉に上がっているが、どの民族も、互いの陰謀を叫び合っているというのが、その実だ」
「とはいえ、失業者からはよく思われていないだろうな。いつこちらに目が向くか、気が気じゃないが、現状としてはその程度だ」
「いずれにしても、帝国府としては国外に共通の敵を見つけるほか無いだろう。それがどう転ぶかはわからないが、少なくとも敵を探すのには苦労しないはずだ」
私の嘆きを、オブサーバーは真摯に聞き止める。再びの沈黙。
「君の言葉を借りるなら、さながら腹をすかせた獣の前に座る兎かな」
そう言ったあとで、オブサーバーは少し気まずそうな顔をした。
「――すまない、君の皮肉にあてられたが、不謹慎だったな」
「せいぜい、猫の前の鼠でしょう」
コーヒーと、湿気と、煙草の匂いの混ざる地下室に、小さな笑いが起こる。
――シャンデリアに栄光あれ。柄にもなく、そう言ってみた。
「ときに、フィクサリオ君。植える者と収穫する者は同じかな?」
唐突にオブサーバーが言う。私は一瞬だけ考え、静かに首を横に振る「――いや」と、声にならない程度の、小さな息が漏れる。
「最近、私は詩を書くことに凝っていてね。君に聞いてほしいんだ」
オブサーバーは言葉を続ける。
「富はより大きな富を持つ者にたやすく奪われ、与えられた名誉とは他者の都合で剥奪される名誉である。そして奪う者はその地位を失うまいと権威で着飾る。権威に見放されては聖者も瞬く間に罪人となるんだ。だが知性は、知性のみは、誰であっても奪うことはできない」
「これこそが、私たちの財産なんだ」
――
「今月の分だ」
オブサーバーが革袋を卓に置く。一月分の家賃と食費、それといくらかの経費だ。私は中身を転がしながら、一人あたりの食費について考える。
「それと、これは個人的な差し入れだ」
そう言って足元の木箱を蹴った。シャンデリアの煙草だ。
「ああ、礼を言う」
私は革袋が鞄の奥にしまわれていることを再度確認した後、席を立ち、木箱を脇に抱えて踵を返した。
「それでは達者でな。来月も頼むよ」オブサーバーが言う。
「ああ、そちらこそ。死ぬなよ」私が返す。
別れの挨拶はそれだけだった。
地下室を出る前に、私はもう一度だけ、男の顔を見た。その顔は、今日もまた、私の記憶に定着しなかった。地下室にいる間だけ、私はその輪郭を覚えている。地上に出れば、男の顔はすぐに霧の中へと消えるだろう。
十分だ。互いの顔を覚えず、本名を知らず、詮索をしない。そうであれば少しだけ、喋りすぎたのかも知れない。
――私は煉瓦の壁に肩を擦りながら、階段を登っている。




