二話:振り
商業区の門の脇を通り抜けたあと、私たちは旧市街と呼ばれる、古い街区へと入っていった。
この街区を一言で表すことはできまい。
大学、出版社、歴史ある商店、小金持ちのテラスハウス、社交クラブ、コーヒーハウス、果ては占い師の館まで。何もかもが立ち並ぶ。一方で、整理された表通りから一度逸れれば、たちまち迷宮のような路地へと迷い込む。
あらゆる階層、民族が潜むが、不思議と浮浪者は少ない。――きっと、この地区をうろつく人種は自分の世界に入り込んでいるから、他人へ施しなどくれてやらないのだろう。
霧はやや薄くなっていたが、それは時間が経ったからというよりも、工場から遠ざかったからであろう。
「フェリクス」とスイが言った。
「うん」
「さっきの標語」
「ああ」
「“義務を果たして自由を得る”というのは、“振り”をすればいい、ということだね」
スイが唐突に話し始める。そういえば、さっき、なにかを話したがっていたような気がした。私が一瞬だけ彼女の顔に目をやると、彼女もまた、私を見上げていた。意地悪心で、ほんの少しだけ、歩むペースを上げる。
「振り、というと」
「義務を果たす真似事をして、自由のまがい物をもらうという、劇を演じる」
「だってフェリクス、与えられた自由は自由とは呼ばないでしょう。義務を果たして得る自由が虚構であるなら、こちらも嘘で返せばいい」
「ああ、そうだね。たぶんそうだ」
私が標語を笑ったとき、それは欺瞞を暴き、権力の構造を解体しようとする批判であった。少女はただ、嘘には嘘で返せばいいと言う。私が吊り上げた自己欺瞞を彼女は知恵の一言で始末した。
まったく喜劇的な話である。
――
やがて十字路が見えてくる。人通りが少しばかり増えたので、私とスイは前後に並んで歩いた。十字路の中央が小さな広場になっていて、そこまでたどり着いたとき、四つの通りの全てが見渡せた。私は少しだけ立ち止まり、次の報告書の一文にでもなればと、喧騒と言うには程遠い程度の賑わいを眺める。――スイが背中に突っ込んできた。彼女もおそらく、周囲を観察しているのだろう。
時折通る馬車が、広場の真ん中の、古ぼけた噴水を躱して進む。もともとは井戸だったんだろうか。そう思うくらいには、みすぼらしい噴水だった。
修道女の一団が一様に不愉快そうに顔を顰めている。――万人への慈悲を謳う彼女らの軽蔑の眼差しに、私は愉快な気分を覚える。目線を追った先には、人だまりができていた。頭の隙間から見えた看板で、それが占い師の館へ続く行列だということが分かった。
——私のノートには、街頭の霊媒師や占い師の様子がいくつも書いてあった。私はそれを世相の一環として書いていた。彼らが何を語り、どれだけ稼いでいるのか。三者三様な彼らの振る舞いと、通行人の反応を、硬貨を投げずに観察しながら、私は密偵としてレポートを書いている。
願わくば、この観察が、次のノートの余白を埋めてくれればいいと思う。
我ながら唐突に、柄にもなく、終わった話題を蒸し返した。
「振りをするのは、楽しいか」と私は聞く。
「わからない」とスイは答えた。
「でもうまくやって、お金をもらうんでしょう」
「ああ、そうかもしれない」
「フェリクスは、お金をもらうとき、なにかの振りをしている?」
「いや。私は振りが下手だから」――自己欺瞞。
私は雑誌の切り抜きをして、論説家を気取り、密偵を装っている。だが街頭の霊媒師や占い師は、きっと私と同じ階層の人間だろう。違いは、彼らは振りをして声を放ち、私は振りをして文字を書いている、ということだけだ。
「やってみればいいのに」
彼らになることは、私の頭の選択肢のなかに、これまで一度も入っていなかった。
「考えておくよ」
きっとこれからも、ないだろう。
――
目的地のほど近い場所までたどり着いたとき、私は迷っていた。連れてきてしまったスイを、どうするかだ。見慣れた景色を再度見回す。だが、何度見ても、使えそうな場所は“そこ”以外に見当たらなかった。私は、二股路の真ん中、二階建ての、風情のある建物を指さして言う。
「スイ」
「うん?」
「そこの一階に入っている、コーヒーハウスで待っていて」
コーヒーハウス『ブルームズベリ』。中流階級の社交場である。硝子窓の向こうで、紳士たちが新聞を広げ、議論を交わしている姿を、前を通るたび、横目で眺めていた。そして、私の来る場所ではないと、思っていた。
私はポケットから硬貨を取り出し、彼女に渡した。本来であれば夕食のためにとっておく予定だったが、仕方がない。
「これで、何か頼むといい。私の用事はそんなに長くかからないから」
「どこへ行くの」
「別の場所だ」
――半分本当で、半分は嘘である。私の密会場所こそ、この建物の地下。コーヒーハウスの真下である。
「外には出るな」
「うん」
「声をかけられても、答えなくていい」
「うん」
「私が戻るまで、そこにいて」
「うん」
スイは硬貨を握り、コーヒーハウスの方へ歩いていった。彼女の小さな背中を見送りながら、私は自分が、社交場にふさわしくない冗長な文句を並べ立てたことに、わずかばかりの羞恥を覚えた。
「つまるところ」彼女の背中に声をかける。
「面倒を拾ってこなければいい」
スイはこちらを振り返らず、小さく頷いた。
私は自分の用事を済ませるべく、建物の裏の細い路地に回った。煉瓦の壁のあいだに、人一人がやっと通れるほどの隙間がある。私はそこに入り、苔の生えた煉瓦に触らないよう、奥へと進んだ。
側壁のくぼみ、段差を二段降りたところに、錆びた鉄の扉がある。私が扉を押すと、鉄板が軋み、開いていく。予定通りの来訪を歓迎するように、鍵は掛けられていなかった。
誰の視界にも入らない、忘れ去られた扉だった。
扉の向こうには、正面、もう一枚の鉄扉と、横を向いたところに階段がある。もう一枚の扉は、入ってきた扉より更に忘れ去られたものであり、蝶番も把手も、錆で一塊と化している。おそらく、コーヒーハウスの蔵とでも繋がっているのだろうが、――向こう側は樽にでも閉ざされ、長く誰も触っていないのであろう。
もっとも、こちらに用はない。私は梁に頭をぶつけないよう身を屈め、階段を、石壁に肩を擦りながら、降りていく。
ここに来るとき、私はいつも自分を鼠だと考える。彼らは表の通りでは生きていけない。けれども彼らには彼らだけの通路がある。私は通りを歩き、世界を観察し、生きている“振り”をしているが、真に、私に開かれている道とは、ここから先である。
――私はほんの少しだけ誇らしげに、地下室にいる男に挨拶をした。




