一話:霧の都
――いつしか雨は止んでいた。
机に向かう私の、退屈している耳が、そう告げている。
雑誌『THE NEW ORDER』アリスン・キャベンディッシュの論説『神代の黄昏——カザン要塞戦より五年』記事の中ほど、“神を殺したのは我々である”。という一節に、私は鉛筆で線を引いた。それから線の上を、もう一度なぞった。質の悪い鉛筆の、しけった芯では、鉛の乗りが悪いのである。
――私は、この雑誌をよく読んでいた。
学術論文でも、権威ある新聞でもない。有り体に言えば、新興ブルジョワジーに向けた、衒学と扇動に満ちた、まったくもって“高尚”なゴシップ誌である。しかし寄稿者キャベンディッシュの、赤裸々な社会洞察と、諦観と、皮肉が、私の調子とよく合っていた。
私はその一節をナイフで切り抜き、ノートに貼り付ける。そして、糊が乾くのを待つ間に、記事から線を引き、ページの空いている箇所に、自分なりの解釈と観察を書き加えていく。
これが私の報告書だ。
新聞の一面を飾る、議会演説への称賛を大きく切り抜き、そこに酒場で聞こえた、皮肉な声を添える。それから、街角のデモ行進の様子、パンと葉巻の価格の推移、怪しげな占いの流行、お節介な隣人への文句、そして、熱心に宣教をする婦人たちへの嘲笑を経て、三面記事の切り抜きへと着地する。雑誌からの引用もところどころに混じる。
批判的に言えば、私の観察は、私自身の言葉で書かれているというよりも、諸々の切り貼りに私の感想がついているといった体だ。これを私なりの作品だと言えたのは、退屈な論文もどきとは違う、という自意識に他ならなかった。
――そしてそれが、私の仕事である。これを書き終えて地下室に持っていく。そうすればしばらくは食えるし、家賃と煙草が手に入る。それだけのことだ。
けれども、ノートの、最後の見開きを書き終えたとき、私の心は踊った。凝ったページの数々を、何周か見返し、それから鉛筆を転がす勢いのまま、椅子を引く。世間を見てやろうと意気込み、窓硝子の側へ歩む。けれど、その向こうにあるのは、代わり映えのしない景色。奥の建物の煙突だった。霧に映る白光と、空気の冷たさが、早朝であるかのように錯覚させるが。目の疲労具合からして、暦のうえではもうそれなりの時刻であるのだろう。
「フェリクス」
不意に、視界の端から声がした。語るに及ばないものだから、見ないふりをしていた。窓の下に置かれた寝床で丸まる少女の、翡翠色の瞳と目があった。
「おはよう、ねぼすけさん」
私は彼女にそう声を掛け、再び仕事に戻るのであった。
――
私は子供のころ、いつか自分が哲学者か、思想家にでもなるのだと、漠然と思っていた。雑誌に論説を書き、人々が私の名前を引用するのだと。もしくは、その言葉が人を動かし、解釈を巡った議論が巻き起こるのだと。そう、ぼんやりと、信じていた。
シゾイストにそのような道が開かれているのかどうかなど、その頃の私に、知る由などなかった。――自らの怠惰が道を閉ざしているのかもしれないと、知ろうとはしなかった。
いつしか、諦観が呼吸となっていた私の前に、あの男が現れたとき、私はなにかが変わる気がした。教養への片道切符を拾ったと思った。独立派の密偵。大義になど興味はないと言ったが、その危険な響きに、惹かれる自分がいた。特別な男に、なれると思った。やはり、私はいつだって、漠然と思っていたのである。
その有様がこれだ。雑誌を切り貼りし、街を観察し、感想を書いて、地下室で渡す。――ささやかな達成感の裏側の無常から、目を背けることはできなかった。
密偵という、名乗りようのない肩書が、せめてもの慰めだった。――アリスン・キャベンディッシュの記事に線を引きながら、書いた者が私ではないことを忘れ、線を引いた私がいると、うまく言い換えることができていた。
「いい作品ができた?フェリクス・フィクサリオさん」
最後の仕上げを終えた私の傍らに少女が立っていた。いつから立っていたかは、わからない。彼女は私の手元のノートを覗き込んで、それから、表紙の端の私の署名をいたずらに読み上げた。
「お陰様で。スイ・カウゼルさん」
私も呼び返す。
「なにを書いたの?」
そう尋ねるスイの声に、私は要約して答えるべく、今一度、ノートをめくった。
「世界のことを書いている。どういう思想で、仕組みで、どう動くか。何が起こり、そして人々が何を恐れ、求め、考えているのかを分析し、それを構造にして組み上げていく。そうすると、世界がどこへ向かってゆくのかが、見えてくる」
迷いながら、途切れ途切れに話す。その言葉は、自分の思った以上に大げさで、冗長で、回りくどくなっていた。
「誰が見るの?」
その問いに、私は再び、答えに窮する。思えば、これの行先など考えたこともなかった。男の手に渡った後、本国に持ち帰られるのだろうか?そしてラプチャーの動向、生活の資料として、より大きなファイルにでもまとめられるのだろうか。
「きっと、誰かの好奇心が見るんだ」
それ以外に言える言葉はなかった。その答えに、スイは黙ってうなずいた。納得したのか、していないのか、私にはわからなかった。一瞬だけ、なにか言いたげな顔をしたようにも見えたが、私の好奇心は、この話を掘り下げるところには向いていなかった。
――
私は出来上がったノートを鞄に入れ、外套を羽織る。
「出かけるの」とスイが聞く。
「ああ」
そしてどういうわけか、私は続けてこう言った。
「来るか」
「うん、行こうかな」
スイはわずかに首をかしげた。それから、ドレスに着替えると言って退いた。
なぜ彼女にそのような声を掛けたのか、自分でもよくわからなかった。秘密の地下室へ連れて行くことはできない。待たせておく場所もない。同じ景色を見せたかったのかもしれない。彼女を一人にしておくのがなんとなく不安だったのかもしれない。あるいは、私はただ、彼女と並んで歩きたかっただけかもしれない。
“思慮深い”私にしては、らしからぬ軽率な言葉だった。――と、考えかけたとき、自分がしばしば、思いつきのままに、衝動的な行動をとっては、もっともらしい動機をあとから並べ立てていることに気づいた。
失言を撤回すべく、寝室へ向かったとき。彼女はちょうど、帽子を被っているところだった。私は、その帽子の大きさが、彼女の体格と不釣り合いな気がしてならなかった。
こっちのほうがいい。気づけばそう言って、小さなハットの方を指さしていた。
――私は外套の襟を立て、屋根裏の部屋を出た。
長い、長い階段を降り、井戸の底のように暗い中庭を抜け、通りに出ると、五階の窓から眺めていたときよりも、霧はいっそう濃く沈んでいた。ガス灯の火が、湿気の中で屈折し、ぼんやりとした光輪を浮かべている。揺らめいているようにも見えるが、揺れているのは光ではなく、周りの湯気だろう。もしくは私の眼か、判じがたい。
群青色のドレスに身を包んだスイを連れ、兵舎のような集合住宅の渓谷を進んでいく。伝統気取りの豪華な装飾が施されているが、よく見れば皆同じような見た目をしていて、棟を区別する術は側壁の数字しかない。
――夜に帰れば、自分の城にはたどり着けないだろう。都市拡大の中で一斉に建てられたこれらは、さながら労働者を効率的に配置するための建築様式だ。
やがて私たちは大通りに出た。鉄の街灯はより高く、硝子の中に灯る揺らめく火を、さきほどまで降っていた雨に濡らされた石畳が映す。――近代化された水捌けの悪い石の道だ。
湿った通りを歩く人々は皆、黒い装束に身を包んでいる。肩で風を切る都会派も、めかしこんだ青年も、高い帽子を被ったインテリも、傘をさすブルジョワの婦人達も、いまは一塊の黒い影に見える。誰とも目を合わさないように俯き、まるでなにかに怯えるように肩を竦め、逃れるような早足で、それぞれがどこかへと向かっていた。それがどこなのかは、都市を覆う深い霧のみが知るところだろう。
それを見つめる私もまた、黒い影であるのだろう。――ここまで来て、私は記事から“私たち”という語彙を引用できることに気づいた。論説からの受け売りの言葉を当てはめながら、私はいつだって自分なりの解釈を探している。その時だけは、自分が知識人の目をしていると信じているのだ。
煉瓦アーチの高架線をくぐった先に、商業区への入口が見えてきた。鉄で編まれた門の上部に、鋳鉄の文字が掲げられている。
『義務を果たして自由を得る』
私は門の前で立ち止まらず、横を通り過ぎながら、スイに、半ば自分自身に、こう呟いた。
「人は誰しも、元来自由なんだ。それなのに自由に振る舞えないのは、自分が義務を果たしていないからだと思い込ませる——権力者を甘やかし、臆病者を慰める、まったく“愉快”な文句だよ」
門の下に座る物乞いが笑う。
商業区に用はない。外国商人や古い問屋が立ち並ぶらしいが、あまり良くは知らない。スイが私を見上げて、何か言いかけた気がする。だがその言葉は、地区の境の喧騒をやり過ごしたあとに、聞くことにした。




