十二話A:潜る
「突然のご無礼を、お許しください」――ああ、まったく。驚かせてくれたものである。
腹を決め、威勢よく扉を開いた私が、睨みつけた相手とは、私が半日、反駁していた顔。十字架に修道服の、あの女であったのだ。
それが官憲でなかったことに、胸を撫で下ろす私のほうは、さぞ、腑抜けた顔をしていただろう。
――そうだ。
一瞬、気が抜けて、呑気なことを浮かべる私の頭に再び警戒が立ち上がる。安堵など、していられるはずもなかった。私たちの潜伏する地下室が、露見してしまったのだから。
無論、官憲が戸を叩くよりは、穏やかな事態ではあろう。――そうであれば、私は連行され、暗い監獄の底へと移り住むことになる。
だが、この場合は、一体どうなるのだろうか。むしろ、先行きを予見することのできない状況であり、場合によっては、より厄介な事態ともなりうるだろう。
不穏な想像が次々と脳裏を過る。
そう。どのみち、女が誰かに話せば、教会から治安当局へ通報されるのは、分かりきったことであるから、先延ばしにはなろうとも、事態が好転するわけではないのだ。
私たちの運命は、女の口に掛かっていた。ならば――
私は、女を迎えることにした。
女がこの扉の前までたどり着いたということは、つまり、私の背中を追ってきたのだろう。
ならば、このまま、女を地下室に招き入れ、卓に座らせ、話を聞けば。女はもう、無関係ではいられなくなる、そういう算段だ。
ここを見つけたことが、女が先程言った“自らの意志”によるものであるならば尚更、それは他ならぬ、女自身の罪となる。
そして、私の見立て通り、女がただの修道女でなく、教会の、高位に位置する聖職者であれば――地位にふさわしく、“良かれと思って”の告発をためらう程度の思慮と知恵があるならば。
それだけで十分、女が口を噤む理由になるはずだ。
女を共犯に仕立ててやろう。
都合の良い脚本、楽観的な展開、いくつもの、奇跡と希望に縋った打算。
分かっている。けれどもこれが私の、地下で生きる鼠の、精一杯の知性であった。
腑抜けた顔から、いつも通りの辛気臭い顔を取り戻した私とは裏腹に、女の表情は、昼間、商業区の門の下で出会ったときと、ほとんど変わってはいなかった。慎ましやかで整った顔立ちと、なにかを堪えるような瞳は、変わらず、私の向かいに佇んでいたのである。
――
「どうぞ」と私は言う。
「入るといい」
女は無言でうなずき、そして鉄扉の内側へと一歩、足を踏み入れた。それから、女は私の脇をすり抜け、地下へ続く階段の上の、狭い踊り場へと着いたのである。
私は、落ち着かない様子の女をひとまず放って、周囲を警戒しながら、外との繋がりを断つべく、すばやく扉を閉める。
――把手に向けて伸ばした私の腕と、女の腕が交差したところ、私たちの体が僅かに触れた時、女は古傷にでも触れられたかのように、全身で飛び退く。ちょうど、錠前をかけた音が、石壁に響くと同時くらいの出来事であった。
それから私は、女を伴い石段をゆっくりと下り、地下室の広間に敷かれた絨毯の上へと立った。
そこから、卓の上のみを照らしている、芯の絞られたランプに目をやる。それから、卓の側へと歩み寄り、私が普段座る椅子――以前、密偵として、この地下室にやってきていた頃に、私が座っていた方の椅子。を引いて、それをランプで照らしながら女に座るよう勧めた。
そして私自身は、卓の向かい側の、オブサーバーが座っていた古い木の椅子に腰を下ろす。
軋み、やや不揃いな足の長さにぐらつく。だが、この椅子から見える景色は、見慣れた地下室の、見通しの悪い暗闇のなかでさえ、いつもとは異なっているように思えた。それの意味するところ、私は今、招き入れた者と対面しているのである。
ここに座っている私は、迎える者を演じているのである。
地下室はいつもと変わらず静かであった。ランプの油は、気づけばずいぶんと減っていた。炎は変わらず、小さく揺らいでいたが、いつ尽きてもおかしくないだろう。けれど油を取りに、ここで再び立つのも野暮に思い、私は視線を、薄い明かりに照らされる女に移す。
私たちは、しばらく、互いの顔を見ていた。そして先に口を開いたのは、女の方であった。
「申し遅れました。私は――」
少し躊躇い、それから名乗る。
「オフィーリア・メルセデスと申します」
次の名乗りは私の番である。で、あるのだが。私の声は、思考によって遮られる。――果たして、私に名乗れる名などあるのだろうか。
いや、女が、彼女がオフィーリアと名乗ったのだから、私も自らの名をそのまま名乗れば良いのだ。
「フェリクスだ」
私の答えは単純だった。その単純な答えを、彼女はなんの疑問も抱かぬまま受け取った。
名乗れば怪訝な目で見られるなんて、私はずいぶん陰鬱な世界に浸りすぎたのかもしれない。
名の応酬はそれで終わった。それから少しの沈黙の末。
「そういえば、傍らの少女はご一緒ではないのですか」
口を開いた彼女の問いは、まるで沈黙に言い訳をするようで、どこか、わざとらしいものだった。
私はそれに答えなかった。答える語彙を持ち合わせてはいなかった。きっと、部屋の奥、闇に包まって、息を殺しているのだろう。具体的な場所など、私にさえ分からないし、余計な詮索が過ぎるというものだ。
私はただ、黙って女の目を見つめていた。睨んでいるように映ったかもしれない。長い、長い沈黙が走る。
「いえ、あなたにとって、私はまだ、信用できる相手ではありませんでした」
「身分も明かさずに、過ぎた詮索を。お詫びいたします」
少し言い淀んだ後、控えめに言葉を続ける。
「私は、審問院直下の聖――」
なにかを言いかけ、そして言い直す。
「聖女。と、広く呼ばれています。もっとも、私自身、それに値するとは思いませんが」
どうやら、詮索をやめる。という意味ではないようだ。その証左に、詫びに続く言葉として、その肩書を述べたのだから。
だが、私にとって、彼女の身分など、どうだっていいものだった。ただ、私がこの困難をどう乗り越え、どう利用するか。
――いや、私はその一語を、頭のなかで、もう一度反芻した。
どうだっていい、違う。彼女は、たまたま通り掛かった、ある教会の者。でも、希望的観測が思い描いた、高位の修道女でもなかった。彼女は“聖女”と言ったのだ。
その名は、私でさえ、聞いたことのあるものだった。
雑誌で何度も見かけた俗称であり、正式には聖痕者といったはずだ。なんでも、聖痕と呼ばれる、神に通ずる力を持つとか、神話と接続する存在であるとか。戦時中に、傷ついた軍人を癒し続けた英雄譚は、官報、ゴシップ誌の別なく、何度も喧伝されていた。
まさに、官民共に喜ぶ物語である。ならばその地位は、きっと、地区の一教会に収まるものではないだろう。
そして、私は気づく。私が組み立てた打算は、その“聖典”を前にして、到底通じるものではなかったのだと。
もし、彼女が私を密告するならば、彼女はそれを匿名で行わない、その必要などないのである。
彼女こそが、権威そのものであった。――ここで辻褄が合う。だから始めに、彼女は自らの意志で来たと言ったのだろう。自身の名の、威力を十分に理解していたから、その名も、肩書も、気安く口にはできないのである。
ならば、その言葉は、教会にとっては勿論、司法にとっても、民意にとっても、最高位の証言として扱われるだろう。
彼女が話せば、その時の話しよう次第で、言い回しの気まぐれでさえ、たちまち私の全ては終わる。それだけのことであった。
もはや、打つ手はなかった。同情に値する顔でもしてみるか。言葉を交わし、親交を押し付け、それが少しの躊躇いにでもなればいい。
最期にすがったのが憐れみとは。全くもって、情けない話である。
――
私は卓の上に両手を置き、彼女の顔を見、そして切り出す。
「では、聖女様」
「はい」――返答は、少し、身構えるようだった。
「なぜ、ここが分かったんだ」無粋な問いだと分かっていた。私自身、その答えをすでに推察し、一つ結論を導き出していた。
そして、彼女が答えに窮することも、分かっていたのだ。目を伏せ、半歩、心を遠ざける彼女に、私は一歩、踏み込んだ。
「では、どうして、付いてきてしまったんだい」




