十二話B:狼
「正直に申しますと、私にも、よくは分からないのです」
彼女は卓の上で組んだ自分の手を見つめる。ランプの揺れる炎を見て、それから再び、私の顔に視線を戻した。
そして、そう、言ったのである。――言い終えると、彼女は再び、視線を卓の上へ落とした。
私はそれを黙って見ていた。注視はしていない。
ただ、木の椅子に深く腰を掛け、ランプの炎と、それに照らされて暗がりの中で白く浮き上がる彼女の顔を、ぼんやりと視界に収めていただけである。
「先ほど、門の下であなたが語られていた言葉。それを私は否定することができませんでした」
彼女は顔を伏せたまま、途切れ途切れに話し始める。
「言葉の一つ一つが、革新的だなんて思いません。むしろ、今世紀の普遍的な命題とも言えましょう」
「……そう言って聞き捨ててしまえれば簡単だった」
大きく息を吸ってから、彼女が私の目を見る。
「私も、気づいてはいたのです。けれども、私は神の無謬を選んだ。選ぶことで目を背けていた。だから私は、立ち去ることしかできなかった」
「けれども……」
「あなた方から遠ざかるほどに、私の欺瞞をあなたの言葉が論うようだった。そしてそれが、私の中で反駁していた。
気付けば私は足を止め、そして振り返り、あなた方の姿を人混みに隠れ眺めていたのです」
「それから――」
唐突に、彼女はそこで言葉を切った。
「ご迷惑だとは、分かっておりました。それでも」
「やがて門の下から立ち去るあなたの背を、私は追ってしまっていたのです」
――
「あなたは、私になにを見た」
私は彼女を見つめ、問う。
「分かりません」と、答えはそれだけだった。
僅かな灯に照らされた唇が、なにかを言いかけたようにも思えたが、結局、彼女は再び俯いて、私たちは、また、黙ったのである。
どれだけの時間、そうしていただろうか。
けれど地下室は呑気に、いつも通りの静寂を演じていた。
――炎が弾けて、影がわずかに揺らぐ。
「私は、あなたに――」沈黙を裂いて、私が口を開いたとき、
「私は」彼女もちょうど、言葉を始めたのであった。
私は、そのまま続けようとした。少しばかり声を強めて、あなたに迷いを見た。そう言い切ってやろうと。
その洞察に根拠などなかった。いつものことだ。ただ、慇懃で、控えめな彼女は、腹を立てはしないだろうと。もしも、私の言葉が、再び彼女の中のどこかに引っかかれば、共感の一つでも引き出せるかもしれない。
あわよくば、理解者を演じられたらいいと――。
「私は神を、信じきれなくなったのです」
だが、彼女は私に続きを譲らなかったのである。
そしてその答えは、軽薄な打算でも、曖昧な言葉遊びでもなく、遥かに確信めいていたように思う。私は何も言わなかった。今、私はその言葉をよく咀嚼しなければならないからだ。
神とは、信じるとは、考える私に構わず、彼女は続けた。
「私の家は代々、優れた聖痕者を生み、審問院に収めて参りました」
「そして私も例に漏れず、幼い頃から聖痕を表しました。それどころか、その権能は神の至高の寵愛とまで、言わしめうるものでした」
「私は、篤実に神を信じる者として育ち、自分の生とは神への奉仕であると、心の底から、そう思っておりました」
「権能を発揮し、聖書の奇跡を再演する。それこそが聖痕者としての、神に与えられた使命でした」
「けれども」
彼女は卓の上で祈るように組んでいた手を解く。指の節が、わずかに白くなっていたことが、小さな明かりのなかでも分かった。
「戦時に、私は心を見失いました。そう、神を疑ってしまったのです」
「私がそこで行ったこと。正義と信じて大いに振るった“権能”が、作り上げた光景とは――聖書をよく読んできたから分かるのです、それはとても、とても冒涜的なものでした」
「……救えなかった者たちの傍らに立つ私はきっと、救済とも、奇跡とも程遠い姿をしていたでしょう」
「もし、私の権能が、本当に神の至高であるならば。神とは、人の業を嘲笑い、地獄へと手招きする怪物でしかない……」
それから彼女は大きく息を吸って、今にも崩れそうな笑顔を浮かべると、大粒の涙を湛えた瞳をこちらに見せないように俯き、言う。
「あらゆる傷も、痛みも、癒す力。けれどもそれは、心が完全に挫けるその時まで、決して死を許さない呪いでした」
次の言葉を迷う彼女に、私は思わず答えた。
「ならば、死こそが救済であると」
そして、その言葉を聞いた彼女は顔を上げ、諦めたように失笑を零す。
「ええ、おっしゃる通りです。そう思ってしまった時点で、神を信じるという言葉はもう、嘘偽りに他ならなかったのだと思います」
彼女の瞳から溢れた涙が、ランプの灯を拾い、頬に光の筋を描く。
「それでも私は、聖女でした」
「戦線を支えた英雄として、民衆に手を振られ帰国の門を潜ったのです。結局のところ、運命か、もしくは業なのでしょう。私は、綺麗な言葉から、華々しい逸話から、逃れることはできなかった」
「澄ました顔で、偽りの善を説いた。そうやって、私は神に忠実な聖女を演じ続けたのです」
彼女が私を見る。
「あなたが、語っておいでだったこと——」
「神を殺したという言葉。聖書はもう薬として効かず、人々はより強い鎮痛剤を求めていると。ええ、そうです、私たちを救える神はいない。それはまさしく、私が気づいてしまった、誰にも言えない罪でした」
「私はそれを目の当たりにして、あまつさえ、加害者となってなお、気づかない振りしかできなかった」
「それを、あなたのような貧しい青年が、権威の後ろ盾さえ持たず、それでも恐れず、堂々と語っておられたのですから」
「私は、立ち去ることができませんでした。危険が及ぶ前に止めなさいと、慈悲で追いやりにきたはずの私は、いつしかその言葉を追ってしまっていたのです」
そのとき、ランプが消えた。――油を吸い尽くした炎は、最後にひときわ強く揺らぎ、それから、しゅんと、小さくなる。
地下室は、暗闇に包まれた。
――
「聖女様」と、私は意地悪に言う。
「はい」
彼女の声は、暗闇のなかで、思っていたよりも近くに聞こえた。
「続けて」
「はい」
彼女はまた、しばらく黙る。黙った後、声をやや低くして続ける。
私は彼女の話を聞いた。
彼女が見た戦場のこと、彼女が触れた生と死のこと、彼女が聞いた叫びと絶望のこと、彼女が祈っても神は答えなかったということ。
そして彼女が自分の手で何かを成したあと、それを自分が成してしまった事実そのものに打ちのめされたこと。
それを私は、暗闇のなかで聞いていた。
途中で、卓の上に置いていた私の手の指先に何かが触れる。彼女の手だ。
触れた瞬間に、それは、わずかに引かれた。
――だが、逃さなかった。
私は、その手を捕まえたのである。
彼女の右手を掴んだとき、それは私の指のなかで、一度だけ強く跳ねて、それから少しの間、震えていたように思う。
けれどそれだけだった。それ以上の抵抗はされなかった。
私はこの柔らかく温かい右手を、暗闇のなかでしばらく握っていた。私は何も言わず、彼女はきっと何も言えなかった。
ただ冷たく暗い地下室で、私は妙に穏やかな自らの心音と、彼女の荒い呼吸を聴き比べていた。
――聞きながら。
私のなかに、ひりつくような計算が、走っていたのである。
自分を見失った聖女が、私の前へと迷い着いた。
彼女はまさに、聖性という権威を体現した人物なのである。彼女が自身をなんと評しようとも、人々が求める物語に、私が求める力に、他ならない。
その彼女が、あろうことか私の言葉を求めている、私の思想を必要としているではないか。
彼女と関係を結べば、私は権威の側にひとつ足がかりを持つことになる。彼女を介せば、私の思想は、私の名前は、もしかしたら、教会のなかにも入り込むかもしれない、あわよくば、社会の中に特権的な居場所を見つけるかもしれない。
彼女が地下室を発見したことは、私にとって脅威であった。
――否、私こそが、脅威であったのだ。
ならばこれは、大きな陰謀ともなりうるだろう。
私は彼女の手を、もう一度、強く握った。
彼女の指が、私の指のあいだにしっかりと食い込む。細い女には、少しばかり痛い具合だろう。彼女は手を逃そうとする、だが私はそれを許さない。
「いいだろう」
「私の言葉を、あなたに授けようではないか」
私は暗闇のなかで言う。
「オフィーリア。罪を、恥を、あなたの全てを、どうかこの私に聞かせてくれ」
私が指の腹で、彼女の滑らかな手の甲をさすったとき、その手はもう、引かれなかった。




