十一話:異邦人
地下室へと帰った私は、興奮の醒めないまま、ランプに火を灯し、いつか書き写した聖句と綴った注釈で、三分の一ほどが埋まったノートを、卓の上へと広げた。
それからペンをインクに浸す。
線を走らせるのはいつぶりだろうか、けれど私の右手は、かの日と違い、勢いよく走った。
連日交わした聴衆との議論を書く。スイの言葉を聞いて湧いた人々の疑問に、私が答える様を。今日の、あの女——教会の、おそらくは高位の聖職者が見せた、私の言葉の前で沈黙するその様を。
私はペンを走らせながら、あの時舌が勝手に組み上げた言葉を、今度は目で確かめる。
悪くない。悪くないどころか、書きつけてみれば、それは私が一人で、悩み、考え絞り出したどの文章よりも、生きていた。
引用でも、切り貼りでも無い。問いが来るからこそ、答えが湧き。反論が来るからこそ、弁舌が立つ。演じながら、雄弁に語るからこそ、私の言葉と言える。
――やはり、そうだ。
私の知性は、対話のなかにこそあったのだ。
――
湧き立ち、没頭し、疲れ、やがて冷静さを取り戻した私に、今度は悲観が押し寄せた。
確かに。あの女は、権威を脱ぎ私的に訪ねたと言った。だが、それがどうした。そこで私が引き下がらなければ、次こそ権威を語り、その次は官憲を伴って、大所帯でやってくるのだろう。最終的に暴力で排除されるのだとしたら、結局は穏便な口調の脅迫に他ならないではないか。今朝の出来事は、どう飾ろうとも、その第一段階に過ぎないのであった。
ならば、今までのやり方を続けるという選択肢は残されてなどいない。パンと煙草を得るために、帽子を構えることは、もはや許されるものではないのだ。
いつだってそうだ。生活が私を追い立てる。
今回もである。いや、今回は。
――曙光。
ならばこそ、この問答を、束ねるべきではないか。私は今や、逃げ帰った臆病者ではないのである。私は、自分で、自分の言葉を書いている。あとはこれを整理し、体系として編み込めば、それは雑誌の論考に乗るにふさわしい思想に、哲学に、なるはずだ。
私は確信する。これは書物になる資格を持つ。個人と社会の屈折を観察し、幾つもの引用を束ね、それを私自身の言葉で語っているのだから。少なくとも、低俗な流行りの雑誌を埋める論考の大半より、遥かに価値がある。
体系の、目次のようなものを、ノートに書いていく。殺された神。時代を生きる苦悩。効かなくなった薬とより強い鎮痛剤への渇望。広い門と狭い門。この一連を、なんと題しようか。宣教と呼ぶには大仰で、しかし説教と呼ぶには——
いや、聖書でよいのだ。あの女が、権威が、聴いたのだから。
スイは、卓の向かいにスツールを持ってくると、天板に顎を乗せて、忙しなく動く私の手を見ていた。ランプの光が、彼女の頬に、瞳に、揺れていた。私の頭は、まだ出来上がっていない論考の、目方を量ることに忙しかった。どこに寄稿しようか、雑誌がいくら売れ、印税がどれほど入るか。多くの人々が、この論説を読んで昼夜議論を交わすだろう。
——空想は、金勘定の形に始まり。どこまでも、どこまでも、愉快に伸びていったのである。
そして、雑誌に掲載され、流通に乗れば。私の名が知れ渡るのだ。
――
突然。地下の静寂に硬い音が響く。
――何者かが鉄扉を叩いたのだ。
ペンを動かす手が止まる。紙の上、言葉の末尾にインクが溜まり、黒い染みが広がっていく。手を離さなければならない。けれど私は黙って、それを見つめていることしかできなかった。体が動かなかったのである。
それが、疲れた私の幻聴であることを願うが、顔を上げた向かいのスイと目があって、その淡い願望も打ち砕かれる。
「奥の部屋の、空き樽の隅に隠れていろ」私は、未だ金縛りにあっている体から、無理やり声を絞りだし、言う。
スイはいつものように、黙って従った。
――ランプの芯を絞る。光が縮み、卓の輪郭だけが残った。
この錆びた鉄扉は、裏路地の窪みの段を二つ降りた先、通りを歩くものからは決して目につかない場所にある。表札など掲げているはずもなく。地下を示す番地もない。文字通りの隠れ家だ。
だが、その扉が叩かれている。
私はつい先ほどまで、この卓の上で、自分の名が活字になる日のことを考えていた。誰かに読まれ、どこかに引用され、人々の口に上る自分を、真剣に、卑しく、心地よく、考えていたのである。
けれども現実は、いつものように。いや、いつもより無慈悲に、決断を迫りにやってくるのであった。
オブサーバーが消えた理由を、私は未だ確信していなかった。
政治犯五名、所定手続を経て処刑――。摘発、尋問、露見。ここに住み着いてから毎晩、頭の片隅で繰り返してきた筋書きは、惰性でこの場所に流れ着くことの危うさを理解していたからであった。
もし、最悪の形で、私の名が流通したとしたら――。
スイを隠したのは、その筋書きに対する反射であった。
私は扉へ向かい石段を登り、答えなど出せないうちに、扉の前にたどり着いてしまう。逡巡の最期に、私は夢を見た。
――なぜ、肩書を求めたか。
立場のない人間がどう扱われるか、私は誰よりも知っていた。だからこそ、雑誌に名前が乗り、それが刷られ公のものとなれば、私は社会に存在する者となれた。誰何されたとき、私は答えられるようになる。名前を持つことが、私たちをもっとも守ると信じた。
だが、それが無いままに、現実が、やってきてしまったのだ。
――
扉を叩く音が三つ、再び響く。
開けるか、開けないか。選択の余地さえ、もうなかった。
無力な私は最期の足掻きに、いつものように考える。ただひたすらに考える。
開けなかったとして、向こうは帰るだろうか。帰ったとしても、この場所はもう知られている。今日帰る者は、明日また来る。明日来る者が、今日と同じように穏やかに訪れるとは限らない。
――それに。
私はもう、密偵ではないではないか。
オブサーバーは消え、報告先は絶え、私のレポートは誰にも届かない書き付けと成り果てた。いまの私がしているのは、門の下の説教の真似事だけだ。後ろ指は差されよう、だが政治犯ではない。扉の向こうが官憲であれ、私は堂々と申し述べられるはずだ。自分は、何者でもない、と。
――それに。
その扉の叩き方は、穏やかで、間隔が一定で、急いでいない。政治犯を捕らえに来た官憲であればもっと強く、硬い拳の重さで鳴らすだろう。この音は、違った。弱く、丁寧で、叩くことに迷いがあるかのようだった。
詭弁だった。過去は過ぎても、消えはしない。もしも帳簿に名が残っていれば、それだけで私は括られる。
そうでないと証明する別の名を、頭の中にしか持っていないのだから。立場のなさが私を追い詰めるのだ。
腹を括る。せめて、私が身を捧げるから、今日のところは引いてくれ。
私は腰のあたりに片手をやり、息を、整えた。
それから、堂々と、扉を開けた。




