十話B:反芻
「――興醒めだ」
私は、背後に伴って歩くスイに、顔を向けず、そう吐いた。
商業区の門に背を向けてから、いったい何歩、歩んだだろうか。私たちの行き先は、暗い、私たちの地下室に他ならない。
だが、見飽きた旧市街の景色は、いつもと少し異なっていた。まだ、明るかったのである。そう、今日のところは撤収してやることにしたのだ。
――ただ、白けただけだ。決して、女に従ったわけではないと、私は胸の内で、誰へともなく繰り返す。だが、それが強がりでしかないことを、私は大いに理解していたのである。
そこには高揚があったのだ。久しく忘れていた、充足があったのだ。私はその時の興奮を、地下室に持ち帰ろうと、足を動かしながら、女の整った顔を何度も、頭の中に浮かべている。――そのときの自分が浮かべていた表情を、再演しながら。
それを悟られぬよう、顔を向けず、興が醒めたと白々しく吐き捨てる私の足取りは、隠しきれないほどに、軽妙だったかもしれない。
――
反芻する。
神妙な面持ちの裏で、一体何を考えているのだろうか。
沈黙の末「あなたは――」と、始める女の声は、当初の慇懃よりも繕いのない、穏やかな調子であるように思う。
「教会で学んでこられたのですか」
だがその問いに「いいや」と、あっけなく答える私の声は、なにも変わっていなかった。
「教会とは縁がない」
「街角で小冊子と出会った人間の、ささやかな直感にすぎない」
「では、ひらめきで、書かれたのですか」
ひらめき。そうだとも。
その語彙は、私に妙に響いた。権威を脱いだ素朴な音は、きっと、無教養をあげつらうなどという、邪なものではないはずだ。
「ああ、しかたなかったんだ」
だから私は、地下室での決まり文句、もっとも正直な言葉で答えた。
――それから女は再び黙った。
次の言葉を組み立てているのだろうか。もしくは、なにか、思うところでもあったのだろうか。
自分の言葉が、軽蔑に聞こえたかもしれないと、恥じているのだとすれば――まったくもって、奇特なことだ。
「過ぎた言葉であることは承知だ」
理屈を見抜きたい私の頭とは裏腹に、気まぐれな舌が言葉を続けた。
「神を信じるあなたは、あなた自身の正直さで、何を語る」
むしろ余計なことを話しすぎる自分の癖に呆れる。そんな私を無視するかのように、女は何も言わなかった。悟られなければ幸いだ、ならばと、私は続ける。
「始めに、私はあなたを、正義を騙る暴力を――教会の権威を、疑った。だが、私のような弱い者の言葉を、真摯に受け止めるあなたの姿が、真意を黙して語っていたように思う」
「あなたは、善い人だ」
――堂々巡って、たどり着いた言葉は、いつもの皮肉だった。私は結局、何も変わらない。
嘘も、世辞も、嫌いではなかった。なぜならば、他者を、みじめにできるからだ。
「私は――」と、ようやく女が、小さく口を開く。
私は、続く言葉に、表情に、期待した。うわべの謙遜を演じるか、それとも思い上がって説教でも始めるか。
そのどちらも、聞くことはできなかった。女は何かを言いかけ、そして、やめた。
ただ、神妙な面持ちを浮かべ、それから、私から視線を外し、商業区の門を一瞥した後、通りの人混みを、まるで遥か彼方の地平を見通すような瞳で見渡した。
それから女は、その瞳のまま、私をもう一度見て、しかし何も言わず、踵を返したのである。
女は商業区の奥のほうへ、足音を立てずに歩き去った。その歩き方は、来たとき以上に、慎ましかった。だが、その足取りは、果てしない、異邦の地へ、旅立つかのようだった。
私はその、なだらかな肩が、商業区の人混みのなかに消えて行くのを見届けた。
そして聴衆は、誰もいなくなった。最初の日と同じ、ただスイだけが、私の傍らに立っていた。
「フェリクス」とスイが小さく言った。
「うん」
「あの人も、言葉を聞きに来たのかな」
「さあ」
「また来るかもね」
私は答えず、帽子を腰のあたりに降ろす。今日の硬貨も、いつもの日と同じくらいだった。
――
細い裏路地を進み、地下室の鉄扉の把手に手をかけた頃、私の頭の中にはまだ、あの女の背中があった。
結局、何者であったのだろうか。
私の問いに、ある教会の者だと言った。だが、それ以上ははぐらかし、ついぞ具体的な所属を明かすことをしなかった。
権威とは力である、ならば、女の立場からして、使うに越したことはないはずだ。けれど、それを頑なに明かさないというならば、それは矜持であり、私人として来たという言葉にも、嘘偽りはないだろう。
それに――
私には分かる。
外套の裾から覗く、華美な装飾が施されているでもない法衣が、いかに上質な代物であるか。
いつか、スイのドレスを作った仕立て屋の奥のほう、硝子越しに飾られていた生地。選択肢にすら浮かばない値札を掲げたあれと変わらない重厚さであったから。
少なくとも女は、木っ端の修道女などではなく、かなり高位の聖職者であるだろう。
――
女の目的は厄介払いだ、それに違いはないだろう。だが、私の言葉を聞き流したかと言えば、それも違うはずだ。
女は議論を盛り上げ、満足げな表情を浮かべ、硬貨を投げて去っていく聴衆たちとは異なっていた。ところどころで引っかかり、沈黙し、口元を歪めていたその顔は、いつかの日に、スイの読む聖句を、いや、私の注釈を黙って聞いた、物乞いが浮かべていた表情と、どこか似ている気がした。
しわがれた物乞いと、整った聖職者の顔が同じ表情を浮かべるというのは、まったくもって奇妙な話だが、
――女が、私の言葉に動かされたと、したら。
女は、私のような者の言葉を受け取る人種ではなかったはずだ。
教会のおそらくは高位の地位にあり、聖書を学び育ち、慎ましく整った顔立ちの。そういう人間は、私のような者の言葉に、耐性を持っているはずだ。普段から聖書のあらゆる解釈を聞いて、それに対する自分なりの応答を、内側に持っている、と。だが女は、私の問いの前で、何も応答できなかったのである。
故に、黙って立ち去った。
いや、奇妙なのは私の方だ。散々否定してきたはずの権威を、大いに喜び、受け取っているのだから。
故に、私も、この達成感を持ち帰るべく、黙って立ち去ったのだから。




