九話:篝火
それから何日か、私たちは商業区の門の下に立ち続けた。
スイは変わらず、私の書いた聖句を、一字も違えず諳んじた。それどころか、その声は日を追うごとに、抑揚を、深みを増していく。私にはそれが、聖性さえ帯びた歌に聞こえたのである。
私もまた、いつものように彼女の傍らに立ち、帽子を構え、行き交う人々を観察しながら、足を止める者を待った。
最初の日に現れた物乞いも、二日目には姿を見せず、それきり、一度も見かけていない。三日目には、別の数人が立ち止まり、四日目にも、また別の数人が歩みを止めた。聴衆は日替わりであり、私の記憶に、同じ顔が二度現れることは無かった。
――帽子のなかには、日ごと、いくらかの硬貨が落ちていた。だがそれは、私が見込んでいたよりも、ずっと少ないものだった。
私の読みは、半ば当たっていた。
商業区の人間は、確かに神秘に寛容であった。彼らは私たちを、訝しみこそすれ、通りの風景の一つとして黙認していたように思う。そのうえで、通りかかる者のうちいくらかは足を止め、中には満足げな面持ちで去っていく者さえ現れた。
だが、だからといって、彼らが財布を開くわけではなかった。ここが、もう半分。読み違いの部分であった。
私はこの地区の人間を、迷信に、保険のつもりで金を払う者と考えていた。それは決して、間違いではない。彼らは確かに、迷信を買う。だが、彼らが金を払うのは、“商品”に対してであった。祈りも、占いも、商品であった。そして、値札の付けようもないそれらを、商品たらしめているものは他ならない、信用であった。
――私たちに、そんなものがあるはずもなかった。奇しくもこの地区の人間は、この街でもっとも金の使い方を心得た人々だったのである。
少女の諳んじる聖句は、商品ではなかった。それは街路の情景の一部であり、そこに、何らかの感想が上乗せされたところで、なお、無料で享受してかまわないものだった。
いや、私たちが景色に混じることを許されたのも、聖句という慰め文句があってこそ、なのかもしれない。少なくとも、その“かび臭い言葉”は二千年の歴史を背負っていた。
そのささやかな信用の賜物が、帽子のなかのわずかな硬貨であるならば、これ以上を望むのは、いまの私には贅沢であろう。
少なくとも、その日の食費にはなった。スイの食事と、私の煙草――大陸産の不味い煙草だ。と、わずかなインク代、その程度なら、ちょうど賄えたのだから。
――
「――雨が降り、川が溢れ、風が吹いて、その家に打ちつけると、家は倒れる。しかも、その倒れ方はひどい」
「そして、見よ、我々の家は、いったい、どちらの上に立っているだろうか。理想と拡張の上に建てられた我々の家は、いま、まさしくひどく倒れる最中ではないか」
スイが、私の注釈を諳んじる。その日もまた、私たちは門の下に立っていた。
彼女が読み始めてから、ちょうど半時ほど経っていた。聴衆は三人、うち二人は、現れては去り、入れ替わり立ち代わり、顔を変える者たち。けれど、もう一人、私の視界の端に、しばらく前から立ち続けている男がいた。
「そして、見よ、岩などいったいどこにあると言うのか。神も、言葉も、賢い人も、いまや熱狂に溶かされて、すべてが砂となった。残された愚かな人々は、一面に広がる砂漠の中で、飢え渇き、ふたたび神に縋るのである」
「――待て。そんな言葉は聖書にない」
その男が、スイの諳んじる途中で、不意に口を開いた。
スイが読むのをやめた。彼女は私を見上げなかったが、その唇は、次の言葉を紡ぐ形のまま、止まっていた。
「最初から聴いていたが、やはりそうだ。聖書が、そんな解釈をされるはずがない」
私が男のほうを見たのと同時に、男もこちらを向き、ちょうど私と目が合った。
「いまその子が読んだ、二十七節もそうだ。砂上と岩上の家の訓示に、こんな悪趣味な続きがあるわけがない」
男の声は、大きくはなかった。だが、そこには、知識のある者が誤りを見つけたときの、憤りが――はたまた、誤謬をあげつらう喜びとでも言うべきものが、あった。ただの通行人であったが、何かの教養を身につけた人間であると、訴えたいことは、存分に伝わった。
「山上の垂訓を、私は子供のころから繰り返し聞いてきた。こんな冒涜を書いたのは、お前か」
男が、私の顔を睨む、睨んだ気がした。
私はもう、その顔を、ほとんど見てはいなかった。私の関心は、男の表情などにはなく、その言葉を読み解き、返す言葉を組み立てることに、注力していた。
こういう瞬間を、私はこれまで、幾度となく思い描いてきた。地下室で、門の下で、暇に飽かせて何度も、何度も、誰かが私の書いたものを、あげつらう瞬間を、批判する言葉を。そのとき私は何と言って論駁してやるか、その討論を、私は頭の中で幾度となく繰り広げてきたのである。
だが、いざその瞬間が訪れてみると、したためていた、いくつもの言葉は、なかなかどうして、私の口から出てこなかった。
動揺し、目を逸らす。そんな私を尻目に、喉の奥から迫り上がってきた別の言葉が、私の舌を、勝手に動かしはじめた。
「ああ、そうだ。これは、聖書の言葉ではない」
私はそう言った。自分の声は、思っていたよりも、低く、落ち着いていた。
「それは、私が書いた」
男は黙り、次の言葉を待っているようであった。
私は続ける。
「聖書の言葉が、荒みきったいまの世にどれほど無力であるか。聡いあなたが、知らないわけもないでしょう」
「心の貧しい者は幸いである、悲しむ者は幸いである――これらの一節が、貧しき者の空腹を、悲しむ者の涙を、拭ったか。あなたはお答えになれるでしょうか。私は、彼らを前にして答えることができない。救いなど無いと、とうに知ってしまったから」
私は一度、息を継ぐ。そして、しばし沈黙する。言葉を続けようとして、それからあえて、もう一度、沈黙した。
長い静寂の後、私は、声を絞り出すようにして、始めた。
「だから私は、聖書の余白に、私の言葉を書いたのだ。書くことは、もっとも柔和な意志である。私は無力だ。だが、彼らの現実を、見ないふりなど、できるものか」
そして私は、義に殉じる者の表情を拵えてみせた。義憤は、密偵稼業の幸いである。
その顔のまま、男の目を見る。男はちょうど、何か言おうとして、口を開きかけていた。だが、出てきたのは、言葉には満たない、息であった。男はその息を、誰にも聞こえない程度に飲み込み、私から目を逸らした。
そして、肩を縮めるようにして、商業区の雑踏のほうへと歩き去っていった。
――
私の周りに、再び、沈黙が訪れた。
だが、それは、先程のようには続かなかった。
聴衆のうち、私の側に立っていた女が、何か、小さく声を漏らしたような気がした。きっと、賛辞ではないだろう。歓声でもないだろう。だが、何かを感じていたには違いない。
それから、ひとつの声が立ち上がった。
「それでは」と、聴衆のなかの一人の男が、控えめに口を開いた。
「あなたの言葉では、神様は、私たちの側には、もういない、ということになるのですか」
私はその男を見た。
――自分が街頭で誰かと言葉を交わすことになるとは、思ってもみなかった。スイが諳んじ、私はその傍らに立つ。それが、私の思い描いていた、商業区での私たちの姿であった。
「いない――否」
「神を殺したのは、他ならぬ、我々である」
だが、いま、私は、スイが読み上げてきた訓示の、その続きの一文を、他ならぬ、私自身の声で読んでいたのである。
「我々が、神様を殺した、だと」
「ああそうだ。神を殺すには、銃も、悪魔もいらない。ただ、忘れればよかったんだ。――私たちはずいぶん前から、忘れる訓練を積んできたでしょう。雑誌や新聞で世界を知り、国歌を歌い、列車で土地を移るうちに、私たちは神の存在を、進歩主義の勘定には入れなかった」
「そして、万物の霊長を名乗った我々によって、神は世界の外側へと、押し出された」
「それは——」と先の女が口を開く。
「それは、とても、虚しいことではないでしょうか」
「ああ、そうかもしれない」
「だが、人々は、一つの時代の終焉を悲しむよりも、もっぱら新たな時代の訪れに熱狂していよう。この狂乱の最中で、虚しさを忘れずにいられるとしたら、それはとても、思慮深い人だ」
最後。私は女の目を見て、それから、とびきりの不幸を憂える表情を浮かべてみせた――いや、きっと、憂鬱な顔は、私の素顔だ。
私はいま、その場で考え、自分の言葉を、自分の口で紡いでいた。
これまで、私はペンを持ち、紙の上で文字を組み立ててきた。私はそれを、とても自由な場と、思っていた。そこには、書き直す自由があったからだ。一度置いた言葉も、二重線で消せたし、あとづけの理屈を、もっともらしく書き加えることだってできた。
だからこそ、批判も、冒涜も、挑発も、思うがままにできたのである。
だが、いま、舌を踊らせ出た言葉は、書き直せない。唇を離れ、ひとたび聴衆のもとへと届いてしまえば、もう、取り下げることはできないのだ。
私は、それが怖かった。恐れていた――はずだった。
いま、私の言葉は、止まらない。
ある男が、問いを発する。また、ある女が、別の問いを重ねる。私は、それらに、次々と答えていった。私の答えは、地下室で書いた文言と、どこかの引用と、観察と、それから、その場で思いついた新しい言葉の、混ぜ物であった。
答えられないことには黙った。そうして聴衆と論を交わすうち、新たな答えを見つけることさえあった。
私の語りは、雄弁であったと思う。表情を作り、身振りを使い、感情を演じた。
いつしか、スイは、諳んじるのを止めていた。彼女は私の傍らに立ち、私を見上げている。私は、その視線を感じながら、人々と、言葉を交わし続けていたのである。




