八話:火花
「心の貧しい者は、幸いである。天の国はその人たちのものである」
「だが、どうだ、無力な労働者として、この国の所有物となっているではないか」
――スイが低く、けれども澄んだ声で、聖句とそれに続く私の注釈を諳んじた。
商業区とは喧騒の場所であった。馬車馬の蹄鉄が石畳を鳴らし、荷車が軋む。商人たちが声を張って値を交わし、新聞売りが新号を告げる――幾重にも折り重なる音が、通りの空気を震わせ、積み上げられた麻袋から埃が舞う。
けれども、彼女の慎ましく、穏やかな声は、不思議とそれら騒音にかき消されることがなかった。単に私の耳がそう聞いていただけかもしれない。だが、彼女の周りだけは、この奔流の中、地下室と変わらない静粛を保っていたように思う。
私は、スイの傍らに立っていた。両手で帽子を持ち、それを胸の前で構える。無論、施しを受け止めるための、二人一組の説教師を真似た所作である。
そして頭上に、商業区の門に掲げられた、鋳鉄の標語を感じている。見上げなければ見えまい、その標語がどうだということはないが、それは、私たちの存在を、一つの寓話たらしめているものであった。
“義務を果たして自由を得る”
その言葉の下で、私たちは偽りの聖句で商売をしようとしていたのである。
――商業区の景色は、私の頭の中にあるものとは、少し異なっていた。
両替商の看板、保険会社の青い旗、株式取引所の黒い扉。二階の窓硝子の向こうの、帳簿に向かう書記たち。運送会社の鉄柵の向こう、木箱や袋を担ぎ、倉庫から運び出す人夫たち。そこから漂う香辛料の刺すような匂いは、南方由来のものだろうか。
これらは、私の知識のうえでは、それぞれが独立した社会の一員であったし、微に入り語るとすれば、社会構造の構成要素の一つであり、時代を反映する産業の一様式であった。もしくは、スキャンダルを繰り広げる独立項として、私のレポートの上では、行を分けて並んでいた。
だがいま、それらが実体として眼の前に広がったとき、互いに絡まり、渦巻いているように見えた。それを繋ぐものは、他ならぬ人の流れであった。そして彼らは、まさしく“時間を金に換える”人々であった。
私とは全く異なる世界を生きる彼らの、ただの一秒も無駄にしない足取りの最中に、私が立ち止まり、考える場所などどこにあろうか。
各地区で観察してきた、街頭の説教師や霊媒師、占い師が、露店を広げていた最適な立地条件など、何一つとして、この地区の通りには当てはまらなかったのである。
結局私は、見慣れた門の真下を選んだ。聖句を読むのにもっとも場違いと言えるこの場所は、急流をせき止める度胸などなく、押し戻された私が流れ着いた土地であった。
選ばざるを得なかったのである。いや――
“義務を果たして自由を得る”の標語の下で、偽りの聖句を諳んじさせる。私の知性が思い描いたものは、皮肉であり、当てつけであった。
――
一体どれだけの時間、こうしているのだろうか。帽子は変わらず軽かった。
硬貨を落とすものは、未だ現れない。それどころか、足を止める者さえ、誰一人としていなかったのである。
門をくぐった人々は、私たちの脇を忙しなく通り過ぎていった。彼らのうちの幾人かはスイを見た――見た気がする。だが、その足は決して止まらなかった。少女がいて、街頭で何かを口にしている、ありふれたペテンの類型――したり顔で帽子を構える香具師の滑稽な様を、地区選びの失敗を笑っただろうか。
どう思ったか、そう思ったかさえわからないが、どのみちそれだけのことであった。彼らは、各々の要件に向かって、真っ直ぐ、早足で歩き去っていく。
立ち尽くす私が、街の観察にも飽きていた頃に思いついた、聖句の、いや、私の注釈に対する批判への、反論の数々さえ、私の思い上がりを批判するだけして、流れ去っていった――。
私は彼女の声を聞きながら、自分の心臓の音が、次第に早く、大きくなっていくことに、否が応でも気付かされていた。
透明であることには、慣れていたはずだった。
それを、利用しおおせていたと思っていた、ずっとそうして生きてきた。だが、実際に観衆の前に躍り出てみてどうだ、望むと望まざるとに関わらず、私という存在は透明ではないか。
――私は、今の今まで、自分自身を、そして自分の言葉を、衆目に晒すことなど半ば信じてはいなかった。それは、この惨めな結果を、予見していたからに他ならない。
地下室で、構想を立てている間は愉快だった。それをまだ、ありうる選択のひとつとして弄んでいたころは自由だった。つい先程まで、私はまだ引き返してもいいと自分に言い聞かせていたのだ。引き返して、地下室に戻り、また何かを考え始めればよかった。暗い地下室で一人、小躍りしていればよかった。
たぶん、私はそうしたかった。
――結局、昨日の後悔が許さなかったのである。今朝の快晴が、許さなかったのである。差し迫る生活が許さなかったのである。なによりも、私は私自身を、許せなかったのである。
逡巡――
私は、その場所から動かなかった。動けば、私はその理由を説明しなければならないから、私自身に、そしてスイに。動かないでいるあいだは、私はまだ信じることができていたように思う。
――
スイの声は途切れなかった。彼女は私がノートに綴った聖句と注釈を、一度も詰まらずに諳んじていった。すべてを読み終えると、また頭から、彼女は休まず、読み続けた。彼女は私を見上げもしなかった。いつものように、文句を言わず、疑問を問わず、彼女はただ、覚えたことを、覚えた順に、声に出していった。
――何周した頃かはわからない。ふと、視界の端に、一人の、みすぼらしい男が映った。
私は最初、それを見間違いかと思った。だが男は、間違いなく、私たちの傍らで遠慮がちに佇み、こちらを向いていた。
私はその男の顔に、どこか、見覚えがあったような気がした。
その男は、いつの日かに私が、頭上の標語を皮肉ったとき、門の脇で笑っていた物乞いであるように思えた。きっと、気の所為だろう。気の所為だろうか、同じ服装が、同じ皺の刻まれた顔が、同じ場所にあったと思えてならない。
けれど、その男は今、笑ってなどいなかった。とても穏やかな、言葉を聴く者の表情をしていたのである。
「憐れみ深い者は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。だが、どうだ。憐れむ者もまた、無力であり、行き着くところは慰め合いに過ぎない」
――言葉は続く。
男の手に、硬貨はなかった。物乞いに金など、あるはずがなかった。
私はそれを承知していた。男が最初の客になることはなかったが、最初の聴衆であった。
それでも、聴き入る男が一人現れたことが、何かを変えたように思う。
立ち尽くす物乞いを邪魔にして、怪訝な目を向けて通り過ぎようとした女は、それがなにかに没頭している様を見て、次にその訝しげな目を、私たちの方へ向けた。
麻袋を手にした、下働きのようなその女が、始めに、何を見たのか、聴いたのか、そして思ったのかは分からない。だが、足を止め、体をこちらに向けたのだ。
その後ろを通った男もまた、一瞬、歩を緩めたかと思うと、そのまま通り過ぎるでもなく、その場でステッキに体重を預けたのだ。
スイの声は、変わらなかった。彼女は私を見上げもせず、聴衆が増えたことを気にするでもなく、ただ、諳んじ続けていた。
私は帽子を構えたまま、立っていた。
――今、私は、平静を装う内側で、再びの、心臓の高鳴りを感じている。だがこれは決して、半時前の動悸とは違う。
私を視界の端、そこに映る風景のさらに隅へと追いやっていた、この地区の人間たちの視線のいくつかは、私たちの方へと集まっていた。彼らの“金と等しい時間”を私は貰い受けていたのである。
かつて、雑誌の切り貼りの添え物であった私の言葉が今、誰かの心を穿っているかもしれなかった。
そうだ。私こそが、この言葉を書いたものである。門の下で、皮肉を、寓話を演出した者である。
危険なほどの熱だった。今まで感じえなかった情熱に、私の中を流れる血が沸いて、騒いで、疼いてしかたない――。
――気づけば、最初の硬貨が、帽子のなかに落ちていた。
私は、それがいつ、誰の手からこぼれ落ちたものなのかを、見届けることができなかった。
――
日が傾き、聴衆も捌けた頃。朝から変わらず何周も、何周も諳んじ続けるスイに、私は撤収を伝えようとした。
が、その前に、私は最後に物乞いを見た。
男はまだ、暮れの寒さも構いなく、私たちの脇で目を瞑り、言葉を聴いていた。聴衆が増えて、減って、人が立ち止まり、流れ去り、それでも男だけは動かなかった。男は半日、ずっとそこにいたのである。
気づけば帽子のなかの硬貨は、一枚、また一枚と増え、十枚に達せんとするところまで増えていた。
少なくとも、今晩、飢えることは無いだろう。むしろ、少し余らせる余裕さえあるかもしれない。ならば、決して多くはない稼ぎのうちの、ほんの僅かな分ででも、この物乞いにパンくらい買ってやれるだろうと、ほんの一瞬思った。
男は私の最初の聴衆であった。金もないのに、立ち止まって、私の言葉を聴いた。であるならば、パンの一つくらい買ってやってもよかった。それで男の今晩の空腹が、わずかに収まるなら、それはささやかな哀れみであるだろう。
「スイ、撤収しよう」
――だが、私は買わなかった。
スイが最後の言葉を読む。
「神を殺したのは、他ならぬ、我々である」
私は一言、心の中で付け加えた。――ならば、どうだ、その死骸の傍らで、私たちは嘘をつくのである。




