七話B:無能
泥のように、泥のように、眠った。
――
ずいぶんと長く、眠っていたような気がする。
何章もの夢を見ていたように思うが、その内容まで覚えているものは、一つとて、存在しなかった。私が朝と呼ぶ今は、暦の上ではいったい何時であるのだろうか。時計など、買えるはずのない身では、地下の暗闇のなかで、現在の時刻を測る術などなかった。もう、昼過ぎくらいになっているのではないだろうか。
地下室の湿気が、シャツと、布団と、身体を、一つの沼に沈めているようだ。全身に纏わりつく不快感に、たまらず私は身を起こした。
背を伸ばし、首を鳴らし。目を擦り、それから、重たい頭を引きずって、広間の方へ、よろけながら歩いた。
「おはよう、お寝坊さん」
私が広間の絨毯を片足で踏んだとき、部屋の隅の、スツールに座るスイが、冗談めかした声をかけてくる。ランプ灯っていない地下室は、きっと昼間でも暗かった。
「ああ」
私は生返事をして、それから卓の上の、昨晩置いたままの形の冊子を手に取る。
それを開いたとき、昨日の興奮が、計画が、鮮明に浮かんでくる。そして、決起の一幕が、決して夢の中の出来事ではないと確信する。
だが、その事実は、同時に私を焦らせるものでもあった。また、なにもできないのかと。昨夜思い描いていた明日、地下を一歩出て、新たな権謀を繰り広げると誓った、今日の有様とは、昼過ぎまで寝過ごしたという自堕落に他ならなかったのだ。
私は考えた、後付の正当化を図った、考えることしかできなかった。せめて今からなにをすべきか、どうしたら、許せるのかと。これから大きな発明でもして、結果としては、間違いではなかったと、そう思いたくてたまらなかったのである。
ランプにオイルを補充した後、いつだかに、レポート用に買い貯めていたノートを一冊、卓の上へとひっぱり出し、冊子と並べて広げた。
――彼女には、これはきっと不要であろう。だが、凡才の私は、自らの発想を留めておくために、何度だってそれを読み返したかったのである。ならば、質の悪い冊子への走り書きではなく、いつものような、一冊のノートとしてまとめるべきだ。
いや、むしろ――。
自分の言葉で、書き改めるべきである。かび臭い聖句など、もはやきっかけでしか無いはずだ。私が"だが、どうだ”と注釈に至った、背景には、私自身が蓄えた、歴史的な文脈、社会への洞察、それに形作られた綿密な論理があるはずだ。
それを綴ってこそだ。――私は、自らの作品をこさえたかったのである。
ペンを取り、インクに浸し、私はそれを、紙の前で構えた。
だが、私の右手は動かなかった。最初の一言を書き始めることすら、ままならなかったのである。
考えも、言葉も、私の頭の中には、いくらでもあるはずだった。引用をそのままに、満足とは呼ばない美意識もあった。だがそれらを、紙の上に置こうとした途端、掌で水を掴むように、指の隙間から溢れ落ちていった。
私は白紙を前にして、自分の一句すらも、持ってはいなかったのである。
――
じっとしていられない体は、地下室がいつにも増して蒸す、と訴える。
私はたまらず椅子を引き、石段を登りながら考えた。頭が回らないのは、きっと湿気にのぼせているからである。筆が進まないのは、空気が淀んでいるせいであると。
私はそれから、最上段を越えた先にある、外へと続く、古い鉄扉を押し開けた。
地下室とは比べ物にならないほどの湿気が、冷たい空気に乗って流れ込む。裏路地の砂利を強い雨が打つ音は、まるで、石畳を、何頭もの馬が蹄で鳴らすかのようだった。建物の隙間から空を見上げれば、暗く、分厚い雲を、傾く日の、茜が突き上げているではないか。私の見立ては大いに外れていた。昼などとうに過ぎて、もはや夕刻と言える頃であった。
しかたない。明けに起きたとして、この雨では、どのみち今日はなにもできなかったはずだ。――大雨だから、しかたなかったんだ。
しばらく考え、けれど、なにかが浮かんでくるでもなく、私は鉄扉を閉めた。雨音はぴたりと聞こえなくなり、再度、訪れた静寂が、私をひどく焦らせた。それから再び卓に付き、先ほどと同じように、再びペンを持った。私はこの再びの試みを、長く、存分に悩んでよいものとする。
白い紙と、しばらくの間、睨み合った。それから、――しかたない、雨は慰めてなどくれないから。私はとにかく手を動かしてみることにした。
書き始めれば、続くだろうと思った。昨晩、そうであったように。衝動のまま、勢いに任せれば、直感こそがよい方へと導いてくれると信じて、一行、また一行と書いていった。それからしばらく書いて、私はそれを読み返した。
――悪文だった。
そうとしか、言いようがなかった。
やたらと凝った言い回し、衒学に満ちた語彙、もったいぶって、いつまでも結論にたどり着かない長い一文。中身は何も見えず、批判する言葉ばかりが、いくつも思い浮かんだ。
知的で難解だとでも言わせたいのか、そう、自らを見透かしてしまうほどに、自著として自身の名を背負わせたい思惑の滲む、いや、正確にはそれすらも叶えられない、粗末な代物だった。
私は駄文を線で殺した。次のページに書き直した、新たな乱文を、また潰した。次も、その次も、ページを捲るたびに繰り返したと思う。
黒く塗りつぶされたページを何度捲った頃だろうか、いつしかノートの中程まで来たが、文章を書き上げることはできなかった。途中で諦めては、また始めから書き出して、そうしてページを埋めた文章は、いずれも途中で捨てられていた。
結局のところ私は、冊子に元から書かれていた聖句と、衝動のまま書き殴った注釈を、そのまま、一言も変えずに新しいノートに書き写した。せめて文字を綺麗に仕上げようとする試みが、私にとっての精一杯だった。
ずいぶんと長く悩んだが、それ以上のところへ、手を進めることができず、出来上がった成果としては、ノートの三分の一にも満たないものであった。
いつの間に、こんなにやせ細ってしまったのかと。何度も、何度も、冊子と見比べたが、見落としも、書き損じもなく。どうすることもできなかった。ただ、それだけであった。
私はそれでも、一行だけ、書き加えた。これが最後の足掻きだった。
“神を殺したのは、他ならぬ、我々である”
どこかで見た気のする一文だったが、少なくとも今日、私が湿気と、暗闇の中で、自らの頭の中からひねり出した一文に他ならなかった。
だから、これを自分の言葉と呼ぶことにした。私はこの、集大成とも呼べる一文を、それからしばらくの間、見つめていたように思う。
――
煙草の箱に手を伸ばしたが、その箱は空だった。もっとも欲するときに限って、尽きているものである。私はこの現象に、なんと名を付けてやろうか考えながら、足元の、木の大箱に目をやった。
――シャンデリアの紙煙草はもう、残っていなかった。
最後の一本をいつ吸ったのか、思い出せもしなかった。少なくとも、惜しんで大切に吸った記憶など、どこにもなかったのである。
――全く、因果なものである。私はそう、呟いた。
「今日はひどい雨だから」
私は、部屋の隅にいるであろうスイに言った。
それから私は、ノートを持って彼女の側へと歩む。私と目があった彼女が少し微笑んだように見えたが、きっと気の所為だろう。
「これを、覚えてくれ」と、私はさも、これが新著であるかのような口ぶりでノートを渡した。
「うん」
彼女はそれだけ言うと、いつものように、それ以上なにかを問うことはせず、静かに読み始めた。ページを捲る音だけが、地下室に響く。
――沈黙。
どうか、そう、責めないでくれ。
立つ瀬がないことは、私自身が一番よく分かっているんだ。




