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七話A:胎動


 ――まだ、心臓の高鳴りが止まらない。

 目が(かす)み、ランプの炎が(にじ)む。指はもう、ペンを立てて持つことがやっとであった。それでも私は、自らの書いた冊子を何巡(なんじゅん)(めく)り、もう、まともに働かない頭で、一行一行を何度でも、読み返した。


 やがて、息を整え、顔を上げた私は、なんとなしに、部屋の隅のスイの姿を眺めていた。

 その銀の髪はランプの明かりを拾い、さながら頭に光輪を浮かべているようだ。暗闇の中ではよくわからないが、目を(つむ)り、唇を動かし、なにかを唱えているかのように思えた。その様子が、少し、ほんの少しだけ気になった私は、立ち上がり、ランプを左手に持ち、音を立てずに歩み寄った。――無論、冊子を手のひらに収めて、である。


 彼女の傍らに立つと、なにやら微かな声が聞こえた。その声は、冊子に書かれていた聖句に他ならなかった。私は手の中の冊子を捲り、私の文字の隙間の、無垢(むく)で、世間知らずな原文と照らし合わせてみると、

 彼女は、今日の昼頃に冊子を貰ってから、この地下室で初めて触れた内容を、一言一句間違えず、暗唱していたのである。

 彼女の、膝の上に置かれた小さな手が、たまにページを捲る真似をしていることに気づいたとき、私の指も同じ調子でページを捲っていた。彼女は段落の切れ目さえ、違えてはいなかった。


 ――


 私は、片手で冊子を開きながら、その手の指の背で、スイの白く丸い頬を軽くつついた。

「ん」

 彼女は少し驚いたように、困惑したように、私の顔を見上げる。

「これを、読んでくれ」

 私はそう言って、彼女の手に、私自身が仕上げた冊子を渡した。何も言わずに受け取った彼女は、私になにかを聞くこともせず、冊子の頭から、私の注釈を含めた一字一字を声に出して読み上げていく。暗闇の中を響く、低く繊細なその声は、私がその言葉を、何度も読み返し、自らの頭の中を響かせていたときより、遥かに鋭い。

 言葉の一つ一つが、この空間に沈殿(ちんでん)していき、同時にこの世界を丸裸にし、そして私自身の全てをも暴いていくようだった。

 彼女が読んでいる間、私はただ、彼女の傍らでランプを構え続けた。

 そして考える。


 ――私は植える者ではない。種も、植える土さえも持ってはいなかったのである。

 あの男も結局は、自分が植えた何かを、自ら収穫することは叶わなかった。あるいは、その事実に気づいていたのだろうか。だからあの時、他ならぬこの場所で、奪われ得ぬものは知性のみであると言ったのだろうか。そして、男は私に、分かりきった現実と、それから植える者であることを願うと書き置いた――。


 やがて、スイは全てを読み終える。ずいぶん多く、書き加えたように思えたが、声に出して読み上げれば、それはあっという間の出来事だった。私は再び、スイから冊子を取り返し、そして今度は、自らの声で聖句を読む。

「心の貧しい者は、幸いである。天の国はその人たちのものである」

 不思議そうにこちらを見上げ、一瞬戸惑い、それから彼女は続きを答える。

「だが、どうだ、無力な労働者として、この国の所有物となっているではないか」


 ――完璧だ。

 それを私が読めば、負け惜しみにでも聞こえるだろう。元の聖句でさえ、私の声では悪い冗談かなにかに聞こえる。だが、どうだ、彼女が読めば、聖句は理想に、私の注釈は、この世の真理に聞こえるではないか。


「これは、フェリクスのジョーク?」スイが問うが、私はそれを無視した。

 彼女には、前々から妙に(さと)いところがあった。よく観察し、よく覚える。どんな私の些細な呟きでも、記憶から投げ捨てた情景でも、彼女は覚えていた。私はそれを、さも当然であるかのように振る舞った、彼女が気づかないよう、見ない振りをしていたのである。――私は恐れていた、まさしく、私にそれを扱う術がないからである。


 だが、どうだ。今、私の頭のなかで、何かが組み上がってゆく。

 可憐な少女が、街頭で、美しい声で聖句を(そら)んじる。そして聞いた者から、いくらかの施しを得る。

 なんら新しいことではなかった。街頭には、説教師が、霊媒師が、占い師がいる。彼らはみな、なにかを(うた)い、なにかを語り、通行人から施しという口実で金を得ていた。私のレポートには、彼らの振る舞いと、通行人の反応が、奇妙な観察対象として記されていた。


 だが、彼らになることが、私の頭に浮かぶことは、これまで、一度たりともなかった。当然だ、彼らの騙る“神聖なるもの”が、私にはあまりに、かび臭い、陳腐なものに思えたから、彼らの姿が、あまりに滑稽に思えたからだ。

 かたや私は、新聞を、雑誌を読み、社会を、人々を、赤裸々に綴っていたのである。

 だがどうだ、結局のところ、私には何もなかった。それが切り貼りと、引用であることから、ついぞ最後まで抜け出すことができなかった。ただ一人の読み手を失ったとき、私はそのまま、肩書も、食い扶持も、宿も、全てを失ったのである。


 若者向けの仕事は、きっと街のどこかにはあったはずだ。だが、私はそれを探す振りをして、それきりだった。終着点はいつだって、社会の不平等、民族の不遇に落ち着いて、その場の自分を納得させてきた。

 本当のところ、私は労働の世界に飛び込む度胸がなかったのである。朝に起きて、誰かの指図を受け、夜まで身を粉にして働き、家に帰って眠る——そういう、まっとうな生活に身を晒すことは、私には耐えがたかった。


 告白しよう――。

 結局のところ、私は臆病だったのである。怠惰にかまけて、自分の無能を晒すことが、怖くて仕方がなかったのである。

 そして、傲慢だったのである。彼らが、聖句という戯言で、自らを慰めるように、私は自らを考える(あし)と呼び、知性という言葉を収奪していた――他ならぬ慰めの感情を肥やすために、である。


 街頭でスイに聖句を諳んじさせて、施しを受ける——それは、まったくもって、まっとうな労働ではないだろう。これは私の、臆病と、傲慢の延長線上にある、新たな(くわだ)てに他ならない。

 だが、私はこれをペテンとは呼ばない。なぜか――。

 現実主義が、大国に干渉される小国から生まれたように、臆病さは現実を過酷に評することを恐れないのである。そして、神聖という言葉の虚構、それに(まと)わりつく権力を、今世紀に神の虚無を暴き晒したのは、他ならぬ我々の傲慢であるからだ。

 ――現代人が、教会を過去のものだと理解していることを、甘言を信じ切れないほどの、現実があることを、私はずっと、観察してきたのだ。

 然らば、これこそが、奪われ得ぬ知性の賜物に他ならない。


 ――


 それからの私は、広間の絨毯(じゅうたん)の上を歩き回りながら様々な考えを巡らせていた。

 まず、この試みをなんと題するか。宣教と呼ぶか、説教と呼ぶか、少なくとも、救済を無邪気に謳う連中とは違う。その自意識のみを抱き、名付けは一度、保留にした。

 次なる議題は、それをどこで行うか、であった。私が自らの観察の中から掘り起こしたものは、結局のところ街角のペテンの姿であった。――ともあれ、私が自らの、社会での立ち位置を明確にしようとする発想は、初の試みであるかのように思う。


 私たちの頭上、旧市街の情景を思い出す。街頭には霊媒師がいて、占い師の館があった、けれども硬貨を投げる人間は少ないように思う。占い師の館に通う暇な女たちには、私の洞察は届くまい。

 大通りの高架下はどうか。人の往来が多く、放浪者が芸に興じ、日々、小銭を得ようとしている。だが、ここでは私たちは哀れな道化とみなされるだろう。言葉は、負け惜しみと、素朴な不満に単純化され、物乞いとして“救済”されるのである。

 私たちの古巣を通り抜けた先、労働者街はどうか。教会の説教師が工場よりも礼拝をと、説いているではないか。だが、労働に追われる彼らの頭の中には、ただ、日々への対処があるばかりだ。自分が身を置く環境を、疑う余裕すらないだろう。

 商業区には、そもそもその手の類の連中はあまりいないように思えた。語るに及ばない、商人とは目先の損得にしか興味がなく、おおよそ神秘の客ではないと思われているのだろう。


 そこまで考え、商業区を思考から外そうとしたとき、ふと、思う。

 商人たちは、信仰を最も現実的に扱っているのではないか。だからこそ、都合の良い救済に(すが)らず、社会を学ぶ。

 理屈としては、こうだ。

 明日の船が無事に港に着くか、明日の市場が暴落しないか、明日の取引先が約束を守るか——不確実性のなかで取引をする彼らに、予定調和の救済物語はないだろう。社会とは、理屈で説明しきれるものではない。だから彼らは、合理性の外側に、何かを置く。神を、運命を、星回りを、占いを、迷信を、守護を。

 可憐な少女が諳んじる皮肉な聖句は、現実として届く――私はそのつもりで書いたのだから。そして、旅をする者にとって、信仰は運用となるのである。

 少女の祈りは、施しは、彼らにとっての保険となる。救済が、錯覚でしかないことも、錯覚が商品であることも、彼らはよく知っているはずである。


 ――


 一つ、納得にたどり着いた途端、急に眠気が襲ってきた。

 変わらない地下の暗闇は、時刻を告げなかった。気づけばスイはおらず、ランプも消えかかっている。

 それからの記憶は少ない。

 私は自らの寝室に転がり込み、それから、遠のく意識の中で、運命が訪れたと、明日こそ決起の日であると、誓った――と、そう思う。


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