第6話 「初めて見た表情」
信じられないものを見るような顔。
――そんな表現が、これほど似合う人がいるだろうか。
クレイグ公爵は微かに目を見開いたまま、こちらを見つめていた。
いつもなら氷のように冷静な青い瞳。
だが今だけは、その奥に確かな動揺が浮かんでいる。
まるで。
私が彼の隣に立つと言ったことが、想像以上に嬉しかったかのように。
「アリシア……」
掠れたような低い声。
けれど、その続きを紡ぐことはなかった。
なぜなら。
「ふざけるな!」
アルベルト殿下が立ち上がったからだ。
勢いよく机を叩く音が応接室に響く。
「なぜそんな男を選ぶ!」
その言葉に、室内の温度が急激に下がった気がした。
誰が原因なのかは明白だった。
クレイグ公爵である。
「……今、何と言った?」
静かな声だった。
だが、静かすぎる。
怒りが極限まで達した時、人はかえって声を荒げなくなる。
それを本能で理解したのか、アルベルト殿下の顔が僅かに引きつった。
「しゅ、シュトラウス公爵。私は――」
「そんな男?」
公爵はゆっくりと立ち上がる。
ただそれだけの動作なのに、応接室全体が圧迫されるような威圧感が生まれる。
歴戦の英雄。
数多の戦場を勝利へ導いた男。
その本気の怒気を受けて平然としていられる人間など、そう多くはない。
「お前は俺の妻に婚約破棄を突きつけた」
一歩。
「冤罪を着せた」
また一歩。
「社交界で孤立させた」
さらに一歩。
アルベルト殿下が後退る。
まるで追い詰められる獲物のように。
「その上で、今さら返せと言うのか」
低く響く声。
その一言一言に怒りが滲んでいる。
私は初めて見た。
クレイグ公爵が、ここまで感情を露わにする姿を。
「アリシアは物ではない」
ぴたり。
公爵の足が止まる。
「お前の都合で捨てて、必要になったら取り戻せる存在ではない」
その言葉に。
アルベルト殿下が何も言い返せなくなる。
反論できないのだ。
全部、事実だから。
重い沈黙が落ちる。
やがて。
「……帰る」
アルベルト殿下が絞り出すように言った。
顔色は悪く、肩も落ちている。
その姿は昨日までの傲慢な王子とは別人のようだった。
「アリシア」
去り際。
彼はこちらを見た。
どこか縋るような目。
「私は……」
だが。
続きは言葉にならなかった。
結局、何も言えないまま。
アルベルト殿下は応接室を後にした。
扉が閉まる。
完全な静寂。
そして。
「……はぁ」
深いため息をついたのは、クレイグ公爵だった。
「あの愚か者」
心底疲れたような声。
先ほどまでの殺気が嘘のように消えている。
「あの、閣下」
恐る恐る声を掛ける。
すると公爵は振り返った。
そして。
「大丈夫か」
第一声がそれだった。
私は思わず瞬きを繰り返す。
「え?」
「無理をしただろう」
真剣な表情。
本気で心配しているのが伝わってくる。
「いえ、その……」
むしろ無理をしたのはあなたでは。
そう思ったが、口には出さなかった。
「顔色は悪くないな」
公爵が近付いてくる。
自然な動作で額に手を当てられた。
「……っ!」
近い。
近すぎる。
先ほどまで王子相手に怒気を放っていた人物と同一人物とは思えない。
「熱はないか」
「だ、大丈夫です!」
慌てて一歩下がる。
だが公爵は納得していない顔だった。
「そうか」
言葉とは裏腹に、心配そうな視線は変わらない。
その時だった。
くすり。
小さな笑い声が聞こえた。
振り返る。
扉の近くで控えていたセバスチャンだった。
「何がおかしい」
公爵が眉をひそめる。
すると老執事は穏やかに頭を下げた。
「失礼いたしました」
そう言いながらも笑みは消えていない。
「ですが、閣下がそこまで感情を表に出される姿を見たのは、十数年ぶりでございましたので」
「……」
公爵が黙る。
珍しい。
本当に珍しい。
「昔から何事にも動じない方でしたからなぁ」
「余計なことを言うな」
「これは失礼」
全く反省していない顔だった。
そして何より驚いたのは。
クレイグ公爵が強く否定しなかったことだ。
少しだけ視線を逸らしている。
……まさか。
照れている?
いや、そんなはずは。
そう思った時だった。
「アリシア様!」
勢いよく応接室へ飛び込んできた人物がいた。
ミアである。
「大変です!」
「どうしたの?」
「王都中で噂になってます!」
嫌な予感しかしない。
「第二王子殿下が公爵邸まで押しかけたことが、もう社交界に広まってます!」
やっぱり。
貴族の情報伝達速度は異常である。
「それで?」
「皆さん、『シュトラウス公爵が王子を追い返した』って大騒ぎです!」
応接室の空気が止まる。
私はゆっくりクレイグ公爵を見る。
公爵は天井を見ていた。
露骨な現実逃避だった。
「さらにですね!」
ミアが興奮気味に続ける。
「王都では今、『氷の公爵が奥様を溺愛している』って噂まで流れてます!」
ぶふっ。
今度はセバスチャンが吹き出した。
「なるほど。それは間違っておりませんな」
「セバスチャン」
「失礼いたしました」
全然失礼だと思っていない声だった。
私は恥ずかしさで顔が熱くなる。
対してクレイグ公爵は。
数秒ほど沈黙した後。
「……別に間違ってはいない」
ぼそり。
そんなことを呟いた。
「え?」
聞き間違いかと思った。
しかし。
耳まで僅かに赤くなった公爵を見てしまった私は。
どうやら聞き間違いではなかったらしいと理解する。
そして同時に。
この不器用な英雄が抱えている感情は、私が思っているよりもずっと深く、ずっと長いものなのかもしれない――。
そんな予感が、胸の奥に小さく芽生え始めていた。




