第5話 「愚かな元婚約者」
シュトラウス公爵邸の応接室には、重苦しい空気が漂っていた。
窓際に立つクレイグ公爵は腕を組んだまま、一言も発さない。
その姿はまるで、獲物を前にした猛獣そのものだった。
対して、向かいのソファに座る私は落ち着かない気持ちで背筋を伸ばす。
……胃が痛い。
まさか婚約破棄された翌日に、元婚約者と再会することになるなんて。
しかも隣には、“氷の公爵”。
この部屋の緊張感は完全に戦場だった。
「閣下、お連れしました」
騎士の声と共に扉が開く。
現れたのは、第二王子アルベルトだった。
淡い金髪に整った顔立ち。
本来なら絵本に出てくる王子様そのものの容姿だ。
けれど今の彼は、以前よりやつれて見えた。
部屋へ入った瞬間、その顔が露骨に強張る。
理由はもちろん。
クレイグ公爵の存在である。
「……シュトラウス公爵まで同席とは聞いていないが」
アルベルト殿下が苦々しげに言う。
すると公爵は、冷え切った声で返した。
「俺の妻の面会に同席して何が問題だ」
妻。
その単語に、アルベルト殿下の表情がぴくりと歪む。
「まだ正式に婚姻したわけではないだろう」
「時間の問題だ」
即答だった。
しかも一切迷いがない。
隣で聞いている私の方が動揺してしまう。
「……アリシア」
アルベルト殿下がこちらを見る。
その目に宿るのは、以前のような侮蔑ではなかった。
むしろ。
焦りと、戸惑い。
そして、未練。
「少し、二人で話せないか」
「断る」
今度もクレイグ公爵が即答した。
「まだ何も言っていないが」
「聞く価値がない」
空気が凍る。
アルベルト殿下の額に青筋が浮かんだ。
「公爵。これは私とアリシアの問題だ」
「違うな」
クレイグ公爵はゆっくりと視線を向ける。
その青い瞳は、氷より冷たかった。
「お前が俺の妻を一方的に傷つけた時点で、既に俺の問題だ」
低い声なのに、凄まじい圧力だった。
アルベルト殿下が息を詰まらせる。
かつて戦場で数万の敵兵を退けた英雄。
その威圧感を真正面から受ければ、王族であろうと平然ではいられないのだろう。
「……っ」
押し黙ったアルベルト殿下だったが、やがて私へ向き直った。
「アリシア。昨日の件だが……少々、感情的になっていた」
――何を今さら。
思わずそんな感情が浮かぶ。
「リリアナが泣いて訴えるものだから、私は……」
「殿下」
気付けば、私は静かに口を開いていた。
以前なら絶対に遮れなかった言葉。
「私は一度たりとも、その女官へ嫌がらせなどしておりません」
アルベルト殿下の顔が強張る。
「ですが彼女は――」
「証拠はございましたか?」
「……それは」
「殿下は、私の話を聞こうともなさらなかった」
静かに。
けれど、はっきりと言葉を重ねる。
「私はこれまで、王太子教育の補佐として政務に携わって参りました。各地の税収管理、貴族間調整、外交文書の確認……全て、殿下をお支えするために尽力したつもりです」
言葉にするほど、胸の奥が冷えていく。
どれだけ努力しても。
どれだけ睡眠を削っても。
最後に返ってきたのは、“悪女”という汚名だった。
「……アリシア」
アルベルト殿下が苦しげに眉を寄せる。
ようやく気付いたのだろう。
自分が何を失ったのか。
だが、もう遅い。
「婚約破棄の場で、殿下は私へ弁明の機会すら与えませんでした」
「あれは……周囲の目もあった」
「ですから?」
ぴたり、と空気が止まる。
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
「殿下の面子を守るためなら、私は冤罪を受け入れるべきだったと?」
「そういう意味では……!」
「違うのですか?」
アルベルト殿下が言葉を失う。
その様子を見ていたクレイグ公爵が、小さく鼻で笑った。
完全に見下している。
「お前は根本的に王の器ではない」
「……何?」
「守るべき相手すら守れん男が、国を背負えると思うな」
鋭く放たれた言葉。
アルベルト殿下の顔色が変わる。
「公爵、言葉を慎め……!」
「慎む必要があるか?」
クレイグ公爵は冷然と言い放つ。
「優秀な補佐官を感情で切り捨て、愛玩用の女に溺れた結果、既に王太子派の政務は混乱しているそうだな」
「っ……!」
図星だったらしい。
昨日から王城では大騒ぎになっているのだろう。
私が管理していた案件は多岐に渡る。
引き継ぎもなしに突然排除されれば、混乱するのは当然だ。
「地方貴族との調整も止まり、財務報告も滞っていると聞いた」
「なぜそれを……」
「調べればすぐわかる」
淡々と告げながら、公爵は紅茶を口にする。
余裕そのものだった。
「アリシアを失った損失は、お前が思っているより遥かに重い」
その瞬間だった。
アルベルト殿下が、ぎりっと拳を握る。
「……戻ってきてくれないか」
部屋が静まり返る。
「アリシア。君が必要なんだ」
その言葉に、私は目を伏せた。
以前の私なら。
きっと、その一言だけで報われた気になっていただろう。
必要だと言われたかった。
認めてほしかった。
でも。
今になってようやく気付いたのだ。
彼が必要としていたのは、“私”ではない。
自分に都合よく働く、便利な駒だったのだと。
「お断りいたします」
はっきり告げた瞬間。
アルベルト殿下の顔から血の気が引いた。
「……アリシア?」
「私はもう、殿下の婚約者ではありません」
静かに顔を上げる。
そして、そのまま隣へ視線を向けた。
「今後は、シュトラウス公爵閣下の伴侶として生きて参ります」
その瞬間。
隣から、ぴたりと空気が止まる気配がした。
……あ。
恐る恐る視線を向ける。
クレイグ公爵が、こちらを見ていた。
普段ほとんど感情を見せないその人が。
信じられないものを見るような顔をしていた。




