第2話:氷の公爵様の不器用な求婚は、どう見ても過保護の始まりでした
翌日の正午。
私は指定された通り、王都の一等地にそびえ立つシュトラウス公爵邸の門をくぐっていた。
黒を基調とした荘厳で重厚な造りの屋敷は、主である「氷の公爵」の冷徹なイメージそのものだ。軍事の中枢を担う公爵家らしく、警備に立つ騎士たちの無駄のない動きと鋭い眼光に、思わず背筋が伸びる。
出迎えてくれた老執事に案内され、通されたのは最上階にある執務室だった。
「――入れ」
扉の向こうから響いたのは、重く、低く、それでいて鼓膜を心地よく震わせる声。
一礼して足を踏み入れると、広大な執務机の向こうに“彼”が座っていた。
クレイグ・シュトラウス公爵。
漆黒の髪に、すべてを見透かすような氷を思わせる鋭い青の瞳。彫刻のように整った顔立ちだが、一切の感情を排したような冷たい無表情が、彼を人間離れした存在に見せている。
身に纏う圧倒的な覇気に、並の貴族ならそれだけで膝を折ってしまうだろう。
「お初にお目にかかります、シュトラウス公爵閣下。アリシア・ローゼンタールと申します。本日は――」
「挨拶は不要だ。座れ」
有無を言わせぬ響き。
私は言葉を飲み込み、促されるままにソファへと腰を下ろした。
公爵は立ち上がり、静かな足取りで私の対面に座る。
そして、単刀直入に告げた。
「お前を、私の妻として迎え入れる。契約でも、形だけでも構わない。俺の隣に立て」
「…………はい?」
予想外すぎる言葉に、私は完璧な淑女の仮面を剥がれ、素っ頓狂な声を出してしまった。
妻? 契約? 私が?
「あ、あの、公爵閣下。ご冗談を……」
「俺は一度も冗談を言ったことがない」
「ですが、私は先日、第二王子殿下から婚約を破棄された身です。おまけに『嫉妬に狂って女官をいびった悪女』という悪評までついております。公爵家に泥を塗ることになりかねません」
事実を並べ立てる私を、公爵は鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。あの愚鈍な王子が己の遊び女をかばうために、お前に全てを擦り付けただけだろう。お前が日夜、王太子の執務室に籠もり、あの無能の仕事の八割を肩代わりしていたことくらい、少し調べればわかることだ」
ビクッと肩が揺れる。
……なぜ、公爵がそんな裏の事情まで知っているの?
「俺が欲しいのは、領地経営と複雑な社交界を完璧に立ち回れる『優秀な伴侶』だ。馬鹿な王家に見切りをつけ、実家からも見放された今、お前にとっても悪い話ではないはずだ。俺の妻という座につけば、ローゼンタール伯爵家も、王家でさえも、もう二度とお前に手出しはできない」
確かに、彼の言う通りだった。
「氷の公爵」の庇護下に入れば、あの理不尽な王子も、保身に走った実家の両親も、私に文句を言うことはできなくなる。
私にとって、あまりにも都合が良すぎる提案。まさに渡りに船だ。
「……わかりました。そのお話、お受けいたします」
私が頷くと、公爵の氷のような瞳が、微かに揺れたように見えた。
「しかし、一つだけよろしいでしょうか。私は急遽屋敷を追い出されるような形でここへ参りましたので、嫁入り道具はおろか、当面の着替えすら……」
そう言いかけた時だった。
不意に公爵が立ち上がり、私の目の前まで歩み寄ってきた。
長身の彼に見下ろされ、影にすっぽりと覆われる。威圧感に思わず息を呑むと、彼の手がゆっくりと伸び――私の頬に、そっと触れた。
「ひゃっ……」
「……痩せたな」
冷徹なはずの声が、なぜかひどく低く、熱を帯びて聞こえた。
「目の下にも隈がある。実家でろくな扱いを受けていなかった証拠だ」
親指の腹で、そっと目元を撫でられる。
戦場を駆け抜けてきたはずのその手は、ガラス細工を扱うかのように、ひどく優しかった。
「セバスチャン!」
「はっ、ここに」
公爵が声を張ると、控えていた老執事が瞬時に姿を現す。
「直ちに王都で一番の仕立て屋を呼べ。普段着から夜会服まで、すべて最高級のものを揃えさせる。それから専属の料理長に伝えろ。滋養に良く、かつ彼女の舌に合う最上の食事を直ちに用意しろと」
「御意に」
「部屋は、私の寝室の隣の南向きの部屋を与えろ。調度品はすべて彼女の好みに変えさせろ。少しでも不便をかけたら承知しないぞ」
流れるような指示に、私は目を白黒させた。
「えっ、あ、あの! 契約結婚ですよね!? そこまでしていただかなくても……!」
「俺の妻がみすぼらしい格好をしているわけにはいかない。これは必要経費だ」
きっぱりと言い切る公爵は、どこか不機嫌そうに眉をひそめている。
「お前はもう、俺のものだ。俺の庇護下にある以上、誰一人としてお前を傷つけることは許さない。……まずは、その細すぎる身体に肉をつけさせることからだな」
そう言って、公爵は微かに――本当に微かにだが、満足げに口角を上げたように見えた。
……おかしい。
契約結婚の相手に向けるには、あまりにも熱量の高い言葉と行動。
「冷酷無慈悲な氷の公爵」と聞いていたはずなのに、この底知れぬ甘やかしの気配は何なのだろう。
この時の私はまだ、彼の言う『契約』という言葉が、ただの照れ隠しでしかないという事実を知る由もなかったのだ。




