第1話:完璧な令嬢は、微笑みと共にすべてを捨てる
王宮のシャンデリアが眩い光を放ち、最高級のワインと甘い香水が混ざり合う夜会。
王国の貴族たちが一堂に会するこの優雅な空間は、一人の男の暴言によって、氷を張ったような静寂に包まれた。
「アリシア・ローゼンタール! 君との婚約は、たった今この時をもって破棄させてもらう!」
広間の中央。
私の婚約者である第二王子アルベルト殿下は、勝ち誇ったような声でそう高らかに宣言した。
彼の腕の中には、儚げに身をすくませる小柄な少女――最近、殿下のお気に入りだと噂になっていた平民出の女官、ミアがすっぽりと収まっている。
「……殿下。突然のご発言ですが、理由をお聞かせ願えますでしょうか」
私は動揺を一切顔に出さず、淑女の微笑みを浮かべたまま静かに問い返した。
指先一つ震わせてはならない。それが、王家を支える伯爵令嬢として叩き込まれた矜持だからだ。
「しらばっくれるな! 君が身分を笠に着て、ミアに嫉妬し、陰湿ないびりを繰り返していたことはとうに調査済みだ! このような純真な少女を害する毒蛇のような女が、次期王妃など到底認められない!」
殿下の言葉に合わせて、周囲の貴族たちがざわめき始める。
――まぁ、あのアリシア様が?
――確かに、あの女官は昨日も泣き腫らした目をしていたわ。
――ローゼンタール家も、これで終わりね。
突き刺さるような冷たい視線。ひそひそと交わされる嘲笑。
なるほど、そういうことか。
女官をいびった? 嫉妬した?
思わず鼻で笑いそうになるのを、必死に堪える。
次期王妃としての激務をすべて丸投げしてきたのは殿下であり、私はろくに睡眠も取らずに政務の処理に追われていたのだ。平民の小娘に嫉妬して構っている暇など、一秒たりともありはしなかった。
だが、真実などこの場では無意味だ。
殿下の腕の中で、ミアが「ひぐっ……私が平民だから……アリシア様に、お茶をかけられて……」と嘘泣きを始めた瞬間、私の一切の弁明は封じられた。
王族の言葉こそが、この国では絶対の真実なのだから。
「……承知いたしました。婚約の件、白紙とさせていただきます」
私は静かに、けれど誰よりも深く、美しい所作でカーテシー(挨拶)をした。
「なっ……なんだその態度は! 泣いて許しを乞うなら、修道院送りだけは免じてやろうと思ったものを!」
「許しを乞う必要などございません。私は、恥じるような行いは一切しておりませんので」
「き、貴様っ……!」
顔を真っ赤にして激昂するアルベルト殿下を、私は冷ややかに見据えた。
「殿下が真実を見ようとされなかったこと。そして、それによってこの国が失うものの大きさに……いずれ、お気付きになる日が来るでしょう。その時に後悔されても、もう遅いのですけれど」
「負け惜しみを! さっさと私の視界から消えろ、この悪女め!」
怒号を背に受けながら、私はくるりと踵を返した。
貴族令嬢としての仮面を捨て、今日この場所から、私はただの『アリシア』になる。
絶望? 悲哀? そんなものは微塵もない。むしろ、あの愚鈍な王子の世話から解放された清々しさすら感じていた。
ただ、この後の実家(ローゼンタール家)での風当たりだけは、少しだけ憂鬱だけれど。
夜会から数日後。
悪女の烙印を押され、実家の離れに軟禁状態となっていた私の元に、一通の封書が届けられた。
黒のシーリングワックスに押された紋章を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。
『シュトラウス公爵家』
王都でその名を知らぬ者はいない。
若くして当主の座に就き、圧倒的な武力と冷酷なまでの采配で、隣国との戦争を幾度も勝利に導いた王国の英雄。
感情を持たないかのように敵を蹂躙するその様から、「氷の公爵」「死神」と恐れられる男、クレイグ・シュトラウス。
なぜ、そんな雲の上の存在から、傷物の令嬢となった私に手紙が?
震える指で封を開けると、そこには彼の人柄を表すような、鋭く無駄のない筆跡でこう記されていた。
『ローゼンタール令嬢へ。
明日の正午、公爵邸へ出向かれたし。用件は直接話す。拒否権はないものと思え』
それは招待状というよりも、絶対的強者からの命令書だった。
「……どういうことかしら」
胸の奥で、不安と微かな期待が入り混じる。
王家に睨まれ、実家にも見捨てられた私に、これ以上失うものなどない。
私は窓の外のどんよりとした曇り空を見上げながら、静かに出立の準備を始めた。
――この先の運命が、予想もつかないほどの“甘い地獄”に繋がっていることなど、この時の私は知る由もなかったのだ。




