8 Last Rose of Summer
The Last Rose of Summer アイルランドの詩人トマス・ムーアの古い詩
以前からの『GG』の常連に、ヤマシタさんがいた。
ときどきばりっとしたスーツを着ていることもあるが、たいていはゴルフシャツの軽装だ。
明るい性格のようで、来れば両隣の人たちに気さくに声をかけていた。
そういうおじさんは何人もいたから、ヨウジが特に彼の存在を意識したことはなかった。
店が開く五時までには、まだ時間があった。
ヤマシタさんが店の扉を引いて顔を見せた。
「ちょっと邪魔するよ」
声に有無を言わせない調子があって、開店前だから遠慮してもらおうと考える暇もなかった。
ヤマシタさんが入ってきて、五人の男がその後に続いた。
彼は奥のテーブル席の真ん中に陣取り、からだの大きな男たちが二人ずつその脇を固めた。
もうひとりの男は浅く腰をかけ、入口に向かって半身の姿勢をとっている。
削ぎ落とされたように痩せて頬のこけた男で、目だけが異様に光っている。
普通の人が目を合わせられる種類の人間ではない。
(あれは鉄砲玉が来たときの楯だ)
ヨウジはどうしていいのかわからずに、ただ考えた。
(腕の一本くらいくれてやる替わりに、確実に相手を殺すんだろう)
その筋の人間が来ることはあっても、こんなに殺気立って来られたのは初めてだ。まさかヤマシタさんがそうだったとは……。
とにかく、店でドンパチをやられるのだけは困る。自分たちの身も危ない。
(どうすればいい?)
ヤマシタさんはいつも来るときとは全然、顔つきが違っていた。
両脇の男たちに指示を与え、携帯電話で誰かをどなりつけている。
「そうだ……○○組のあいつに言え……おれの名前を出してかまわん」
彼にとっては息抜きの場所だったのだろうが、緊急事態でここしか避難するところを思いつかなかったらしい。
ジロウは、怒りと恐怖で膝が震えていた。
(堅気にだけは迷惑をかけないのが決まりだろう?
冗談じゃないぜ……逃げなきゃ……ヨウジさんが一緒に逃げてくれれば)
そう考えながら、正反対のことをジロウは口にしてしまった。
「どうします……オーダー取りに行きますか……」
「いや、いい」
ヨウジは、カウンターの下にしまってあったレモンハートの75度の瓶を取り出していた。
ショットグラスに注ぐ。
「なにを……」
一気に飲んだ。カッと胃が灼ける。
「出ていってもらう」
ジロウは、何も言わずにキッチンに下がった。
そして、裏の通用口から外に出て、走った。
(ここは、おれの店だ)
なぜかコウの顔が、つぎにユカリの姿が浮かんだ。
そしてマスターの笑顔を思い出した。
(守る)
ヨウジが口を開きかけたその時に、店の扉ががらんと鳴った。
男たちの顔がいっせいにそちらを向く。
『マーサ』の明子さんだった。
(なんて時に来るんだ……)
明子さんは、男たちの陣形を見て一瞬で状況を把握したようだった。
それでもためらわずに入ってきて、ヤマシタさんの席にまっすぐ向かった。
ヨウジの背中を冷たい汗が流れる。
(なんなんだ)
「あんた、これどういうことなの」
ヤマシタさんの顔が苦しそうに歪む。
「急に野暮用があって、ここしかなかったんだよ」
「ここの子はみんな堅気なのを知ってるでしょうよ、○○に知れたらどうすんの」
その筋の上のほうの人間の名前らしかった。明子さんがそんなところに顔が利くということも、ヨウジは知らなかった。
「すまん、勘弁してくれ、○○さんにだけは内緒だ」
「とにかく、さっさと出ていきなさい」
「いま装甲車が来るからよ、最初からちょっとだけのつもりだったんだよ」
まもなく『装甲車』が来た。
全面スモークの厚いガラスが入っている、大きなベンツが二台だ。
「ヨウジくん、迷惑かけたな」
その時だけいつもの笑顔に戻ってヤマシタさんは挨拶し、ヨウジに一万円札を二枚握らせた。
「なにも出してないんで、もらうわけには」
それだけ言うのが精一杯だった。
「いいから」
ヤマシタさんが札を押し返して、それを断る気力はなかった。
車が発進した。
店の中に戻ると、明子さんが菩薩様のような笑みを浮かべていた。
「もう、あの人たちが来ることはないから、大丈夫よ」
「ありがとうございます」
ヨウジは、カウンターを背にして座り込んだ。
立ち上がれない。
腰が抜けるとはこういうことなのかと思った。
「……ママさんは、怖いおねえさんだったんですか」
「そんなことはないよ、昔から知ってるだけ」
「なるほど……」
明子さんがカウンターに入り、氷水をふたつ作ってくれた。
彼女がひとつ取って、もうひとつを座り込んだままのヨウジに渡した。
それを飲みながら、ヨウジは携帯をとりだした。
ジロウ、いまどこにいるんだ。奴ら、帰ったよ。
ヨウジさん、すいません、おれ逃げ出しちゃって……もう顔向けできないです。
電話口で、ジロウは泣いていた。
ヨウジは少しの間、考えた。
いや、おれも無理しすぎた……逃げて当たり前だ、気にすんな。
だって、ヨウジさんは店を守ろうとしたじゃないですか……。
「いや」
自分でも意外な言葉が流れた。
「何かを、誰かを守るってことは、時には臆病にもならなきゃいけないってことなんだ……こんな時にへんだけどな、なんかそう思ったよ」
ジロウは黙っている。
「こんなことは何年に一度もないさ……店、開けるからな、来いよ」
はいと小さく答えて、ジロウは電話を切った。
「さて、あたしもお店を開けなきゃあ」
明子さんは伸びをしている。
ヨウジは、そろそろと立ち上がった。大丈夫なようだ。
向き直ると、明子さんが胸の中に入ってきた。
驚いていると、柔らかい唇が何秒間か、ヨウジの口を覆った。
「ふふ」
明子さんはすぐに身体を離して、もうバッグを手に店を出ようとしている。
「ユカリちゃんには内緒だよ」
行ってしまった。
(どいつもこいつも……なんなんだ)
ヨウジは、氷水の残りを飲んだ。
もう夏が終わっていく。
夏の名残りに赤いバラ、宿題はまだ白紙です




