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3 パブ『マーサ』


こんなクラシックな酒場に行ってみたいですね

 狭い階段を上っていくと、細い通路の突き当たりに「パブ・マーサ」の看板が出ている。

 同じフロアに入っていたふたつの酒場が閉店して、どれくらいになるだろうか。

『古いビルだし、うち一軒だけ残っても家賃が取れないから、取り壊しになったりしないかなぁ』

 ユカリがそう言っていたことがある。

 あまり彼女の発想になさそうなことで、客の誰かが言っていたのだろう。


『……さん(建物の持ち主)はもうお年だし、あの人の道楽みたいなものだから、そんなことはないと思うよ』

 話を聞いていたママが、そう説明していた。

 ママは、大きな瞳と長い髪が印象的な美人だ。

 酒場の主人より、図書館の司書とかそういう感じがして、インドかどこかの人にも見える。


『あたし、ヨウジはママが好きなんだと思ってた』

『……それでもいいけどさ、おれ、そんなのでマーサに行ってないもの』

『だって、ママって神秘的なミリョクあるじゃん』

『それにしたって、おれの母親……よりは下かな』

『ええっ、そうなの? あたしもいたことはないけど』

『話してればわかるだろ。世間知らずの若いのから見れば、三十そこそこで通るかもしんないけど』

『世間知らずの……若いの……やだぁ、ヨウジこそ、年ごまかしてんじゃないの』

『最近、つい言っちゃうんだよ』

 そんな会話をしたこともあった。

(一年前か、いや桜のころだったから、もっとか……)

 考えながらヨウジは、革の貼られた分厚いドアを引いた。



 ほかの客の姿はなく、カウンターに立っているママがすぐ目に入った。

 挨拶はジロウがしてくれた。

「ママさん、ご無沙汰しています! おれたちもマスターがいなくなってから頑張って店やってるもんで、なかなか来れなくて、ごめんなさい!」

 そのために連れてきたわけではないが、言いたいことを全部言ってまとめてくれるので助かる。


 ママはマスターの葬儀に来てくれた。

 というより、自分たちよりはるか以前からマスターの知り合いだったのだと思う。よくは知らない。


 ママは、余計なことは喋らない人だ。

 軽く会釈をしてから、大きな瞳を輝かせて小さく笑みをうかべている。

「まあ、お座りなさい……お疲れさま」

 カウンターの中にはママだけで、背中を向けてお通しの盛りつけにかかった。

 店の内装は洋風だが、ママが自分で作るちょっとした料理は、切り干しとか旬の野菜のえ物とかが多い。

「何を飲むの?」後ろ姿で訊く。


 ヨウジはコロナを頼んで、ジロウも同じにした。

 適当な大きさの瓶のビールで、飲み口にライムが差してある。

 それを絞り込んで、好みだがグラスに注がずそのまま飲む。

 気分を変えるにはちょうどいい飲み方で、飲んで酔うのが目的ではないヨウジには、これだけでもいい。

 元は、ママにこれを教えたのがヨウジだった。


 ジロウは、上げていた瓶を置いて、もう頬を紅くしている。

 口が達者なだけで、酒にはまるで弱い。

『おれは口説くほうが専門だから、飲むのはちょっとでいいんですよ』

 いつかそう言っていた。たしかに、どちらかにしたほうがいい。

 ヨウジは、店内を軽く見回した。


「いま何人か帰ったばかりで、お客さんはそれなりに来てくれてるの」

 ママが言った。

「いま、中はママさんお一人ですか? 前にいたお手伝いの子は?」

 ヨウジが『ユカリは』と言い出さないので、ジロウがとぼけて訊く。


「ときどきヘルプをお願いしてる子がいるけど……男の子よ」

「いやぁ、女性はママさん一人でじゅうぶんっすよ」

「……おまえ、まぁ、落ち着いて飲めよ」

 少し、ジロウの軽口が邪魔になってきた。


 ママがゆっくりとこちらを向いた。

 訊きたいことがあるのなら、ちゃんとお訊きなさい。

 口に出さずに、そう言っていると思った。

 気取ったり、勿体をつけている間柄ではないから、普通に話すことにした。


「ママ、ユカリはいまどうしてるんだろう?

 べつにケンカとかしたわけじゃないんだけど、ちょっといろいろあってさ、おれは連絡とってないんだ。

 もし知ってたら」


 ヨウジはそこまで言って、コロナの残りを空けた。

 ママは、どこまで話したらいいんだろうと何秒か考えたように見えた。


「わたしは、うわさ話みたいに言うのは好きじゃないから知っていることだけね。

 アメリカに行ったところまでは聞いた。

 彼女、むこうで結婚してたそうだから」


(あめりか……けっこん)ジロウが、声に出さず口をその形に動かした。

 ヨウジはそれを横目で見て、笑った。


 そこに、よそを何軒か回ってきたらしい、勤め人姿の男三人が入ってきた。

 ちょうどいいタイミングだなとヨウジは思った。

「ママさん、おれたちあっちのテーブルでもうちょっと飲んでいくから」

 カウンターを離れた。


 二本目のビールは普通のもので、それをビアタンではなく長めのグラスに注ぐ。

 グラスが少し汗をかくまでおいてから、すっと飲んで、三口くらいで空ける。

 ほどよく身体が冷えて、心地いい。


「……ユカリさん、何も話さなかったんですか」

 いつもよりかなり遠慮してジロウが訊く。

「おれは訊かなかったし、ユカリは話さなかった」

「そういうのってありですかね?」

「事情はよく知らないけど」

 ヨウジはグラスを空けた。

「言っても仕方ないから言わなかったんだろう……べつに何の約束もしてないし、話さなかっただけで嘘はついてないんだから」

「そういうもんすかねぇ」


 ヨウジが割り切れた様子だったので、ジロウはべつに平気そうだなと思い、それ以上は気にしないことにした。

 そうではなく、ヨウジは平気そうな顔をするしかなかったのだが、それはジロウが理解しなくてもいいことだ。


ママは私の小説によく登場する「ねえさん」です

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