13 真夜中のベル
小さな?事件です
日が暮れるのが早くなった。
『GG』は店を開けてから一時間も経つのに、めずらしく客足が伸びない。
椅子席に勤め人ふたりが座って話し込んでいるだけだ。
彼らの目の前に置かれたグラスは、なかなか中身が減らない。
(オーダー、出そうにないなぁ……)
ジロウは「中国語会話」の冊子をとりだして、ぱらぱら見始めた。
サキは、夜の仕事がない時は日本語学校に通っているし、いまでも会話に不自由はない。
自分が中国語を勉強することもないだろうけれど、少しはわかったほうがいいかと思った。
彼女は、ジロウと一緒に買った便せんで手紙をくれた。
出したいから住所を教えてくれと言われたのだ。
(携帯のメールじゃなくて紙に書いたのって、新鮮だな)
手紙には、次のような内容のことが書いてあった。
このあいだはありがとうございました。
ジロウさんと知り合えてわたしはとても嬉しく思っています。
お粥を食べていたのは昔のことで、いまは日本で働くことができて楽しい。
昼も夜もがんばっているのは目標があるからで、つらくはありません。
なん年か先に故郷に帰ったら、美容院を開きたいと思っているのです。
日本語学校がおわったら美容師の専門学校に行くためにおカネを貯めています。
いつかわたしの美容院ができたら、海南島に遊びにきてください。
(美容師っていうより、実業家を目指してるってことだな)
ジロウは、素直に感心した。
彼は、遊び人ふうの言動をとっているけれど、やはり水商売の女性と何度かつき合い、少々痛い目を見たことがある程度だ。
実際には、ヨウジたちに見抜かれているとおりだ。
(あの子と知り合わなかったら一生、行かないとこだよなぁ……)
旅行代理店の前でツアーのパンフレットを見た。意外と安い。
ヨウジは、ジロウの変化に気がついていたが、べつにかまうつもりはなかった。
(なんか楽しそうだし、そのわりに落ち着いてきたみたいだ……いいことだよな)
自分は、他人の心配をしている場合ではないのだ。
自分たちはどういう方向に行ったらいいのか、いろいろと考えてはみている。
ヨウジはいくつか、ユカリにとるべき態度を想定してみた。
「おまえ、日本にいろよ」とか「おれもアメリカに行く」とか。
どちらも違う気がした。
ヨウジは、本当に自分の気持ちがそうなるまでは動かない性質なのだ。
それは優柔不断ではなく頑固というべきものだが、家族以外に指摘されたことはない。
「おはようございまーす」
通用口ではなく正面からコウが入ってきた。
どこで覚えたのだろう、夜の世界の挨拶になっている。
勤め人たちがコウを見て、眩しそうな顔をした。
「いらっしゃいませっ」
コウは客に笑顔でお辞儀をしてから、裏に着替えに行った。
(やっぱりキレイになってきたな、人前に立ってると女ってキレイになるもんだ)
(愛想もよくなった、ホステスじゃないんだからほどほどでいいけど……)
ヨウジは、ぼんやりとそう考えた。
店がひけて、ジロウはひとりで『マーサ』に行った。
コウは帰ったし、ヨウジはまだ伝票の整理をしている。
誰かに話を聞いてもらいたくなったのだ。
自分では、恋愛ごとの相談を他人にするタイプではないと思っている。
それに、いつも身近にいるヨウジやコウにはかえって話しづらい。
(マーサのママなら、聞いてくれそうだ)
ジロウは、自分は明子さんのファンになったみたいだと思った。
(ちょっと怖いけど……)
古いビルの狭い階段を上りながら、少しわくわくした気持ちになった。
「あれっ、ユカリさん」
ユカリが、カウンターをはさんで明子と向かい合っていた。
「ジロウさん……だったっけ?」
「ヨウジさんと待ち合わせじゃないんですか?」
日本に帰ってきていてヨウジに会ったことは、やっと聞かされたところだった。
ジロウにはよくわからないが、サファリにでも行きそうな白の上下という格好をしている。
服装からすると、またコンパニオンを始めたわけではなさそうだ。
ただ明子と世間話をしにきただけだとユカリは言った。
「女の人おふたりじゃ、遠慮したほうがいいっすかね」
「なに言ってるのよ、あたし一人で不便なんだから、そこにお座りなさい」
明子に促されて、同席するかたちになった。
ジロウは、薄くしてもらった水割りを舐めながら、しばらく女性同士の会話を聞いていた。
ユカリは、ヨウジに教えたからもういいと判断しているのか、アメリカでの仕事や子どもの話題を平然と出している。
ジロウはそこまで聞かされていなかったので、いちいち驚かされる内容だった。
(台風みたいな女の人だったんだな……ヨウジさんも大変だ)
「ジロウさんはいま、女の子とつき合ってるの?」
さっきまで名前も怪しかったのに、もう打ち解けている。というか、ユカリはかなり酔っているようだ。
話を振ってくれたので、サキの話をしてみた。
手紙に書いてあったようなことだ。
「なかなか感じのいい人みたいだね」
明子はそう言ってくれた。
「そうかなあ」
ユカリが逆らう。
「誰でもいいから日本人と結婚したいんだよ、仕事とかに便利だから」
ジロウは答えなかった。
けれど、ヨウジの彼女だと思うから、自分は立てた言い方をしている、あんまりだと思った。
「同じアジアの人間だって、あいつらアメリカ人よりもっとビジネスライクで、計算高いんだもん」
「……そうですかね」
「じゃなきゃ、おカネあげて寝てもらえばいいじゃん、さくっと、向こうもそのほうが助かるんじゃないの」
ジロウは、殴ろうと思った。いくらユカリでもひどすぎる。
ふだん酔っ払いの相手で自制している習性がそれを思いとどまらせた。
明子は腕組みの姿勢で、片方の手に煙草をくゆらせている。
われ関せずということだ。こんな場面は数え切れないほど見ている。
「ユカリさんも、ヨウジさんといろいろあって大変なのかもしれませんね。
でも、自分は自分ですから……。いい気になって話しちゃいましたけど」
「またぁ、なんでそこまでいい人やるわけ? いい? そんなのやさしさでも何でもないんだよ。
やさしいだけの男なんて何の役にも立たないんだよ」
「……ヨウジさんに、よく言っときます」
「あんなやつ、大っ嫌いだもん」
ジロウは、大げさにならないように、そっと立ち上がった。
夜中の三時近く、ヨウジの自宅に電話があった。
ヨウジはまだ起きていて(こんな時間に何だ)と思いながら受話器をとった。
『こちら、墨田署です』
(警察? 警察の厄介になるような知り合いは……誰なんだ)
「なんでしょう」
『……といわれる女性の方が泥酔されていまして、タクシーに乗られたんですが行き先も言えないと。
署に連れてこられたんですが、起こしましたらこちらの電話番号をおっしゃってですね。
ご親族の方ではないようですが、引き取りよろしいですか?』
「わかりました、すぐ行きます」
ユカリを拘置所で寝かせておくわけにはいかない。
ユカリに何があったのか
まだ家電が当たり前でした




