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10 さびしいウサギ


『ハムレット』第3幕第1場だそうです

 いくつかの台風がやってきた。

 はっきりしていなかった天候も、そのたびに秋らしくなっていく。

『GG』の向かいにある洋食屋の店頭でいつも寝ていた猫は、姿が見えない。

 どこか、やわらかく暖かな場所に行っているだろうか。



 ヨウジは、もう一度ユカリに会った。

 彼女は、ヨウジが初めて見る辛子色の、薄手の革のコートを着ていた。

 初秋に着るために買ったのだろう。

 ふたりきりの部屋に入って、立ったまま彼女を抱きしめた。

 まだ新しい革が(かお)った。


「……ハムスターの名前は、どうなったんだ」

「あれ? チビたちが欲しがるから飼ったんだけど、もう人にあげちゃった」

「早いなあ」

「だって見た目とちがってなつかないしさ、けっこう凶暴なんだよ」

「ウサギなんかも、そうだって言うな」

「あたし、ウサギは飼えないよ」

「そうか」

「ウサギはね、なつかない割にさ、かまってあげないと死んじゃうんだよ。

 あたし、そんなの面倒だもん」

 それはそうなのだろうけれど、いかにもユカリらしい言い方だなと、ヨウジは思った。


 ふたりは、そう何度も抱き合って過ごしていたわけではない。

 連絡が取れなくなる前に三回、再会してからはこれが初めてだ。

(これが五回、十回になって、当たり前のようにこうするようになったら)

(離れられなくなるんだろうか……)

 薄くかいた汗が冷えて、ヨウジはユカリを抱き寄せる。


「ヨウちゃんは、やさしすぎるよね」

「やさしくなんかねえよ」

 おれは優しくなんかない、どっちかっていうとハムレットみたいなヤツなんだとヨウジは言った。

 ハムレット?

 意外な名前が出たので、ユカリは不思議そうにヨウジの口元を見ている。

 詳しい話は知らないけどさ、オフィーリアだっけ、尼寺へ行けって言うじゃん。

 そうだったっけ?

 自分の思うとおりにならない女なんて、尼寺に行ってしまえって、そういうヤツなんだよ、おれは。

「全然、そんな感じしないよ」

「自分がそうだって知ってるから、抑えてるだけさ」


 シャワーで汗を流して、服を着けたあと、並んでまたベッドに座った。

 ユカリがコートを取り上げて、ひざの上に置く。

 最初ほどではないがまた革の香りがして、それがユカリのまわりの空気に馴染んでいく。


「あたし、またアメリカに行くかもしれない」

 ヨウジは(おいおい……そう来るのかよ)と思った。

 どこへでも行けばと返事しそうになった。

 そうは言わず、その代わりにユカリの顔を見た。

 自分たちは、まるっきり遊びというはずではなかったけれど、最後まで一緒にはいないんだなと考えた。

「むこうにいた時の友だちが呼んでくれたんだよね、あっちで仕事するかもしれないんだ」

 子どもたちをどっちの国で学校に入れたらいいか、検討中だそうだ。


 ヨウジは立ち上がった。

「ヨウちゃんも、アメリカに来てみるといいよ」

「いまは、そういうわけにいかないけどな……」

 ユカリは、ヨウジのからだを強く抱いた。

「それじゃ、痛いって」

 顔を上げさせると、ユカリは少し目を赤くしていた。

「ごめんね、あたしが振り回してばっかりで……あたしって超自己中な女みたいじゃん?」

「みたいってことはないだろう……」

 ふたりとも、笑った。



『GG』の客入りは、まあまあ上々だ。

 カウンターの中で働く三人の若者たちの姿も、客の目には見慣れたものになったらしい。

 なにもかも、以前と同じに見える。

 けれど僅かずつながら、店の雰囲気は変化している。


 マスターの時代から来ている人たちが店を離れることは、ほとんどなかった。

 彼らはヨウジのことを、マスターがそうしていたように名前で呼ぶ。

 さすがに呼び捨てではなく「ヨウジさん」「ヨウジくん」と言う。

 けれど、ヨウジが店を任されてからの客も増えてきて、ほんの少しだが客層は若くなってきた。

 新しい常連になりつつある彼らは、ヨウジを「マスター」と呼んだ。


「おれたちもヨウジさんのこと、マスターって言いましょうか」

「……いいよ、そんなの別に決めなくても」

 店が開く前の、ジロウとの雑談の時間だ。

(ほかに呼びようがないからそう言われるのは、かまわない)

(でも、マスターはマスターだからなあ……)

 ヨウジはそう考えている。

「あたしも、ときどきどっちで呼んだらいいか迷うんだ」

 コウが話に加わる。

「どうして」

「あたしがヨウジさんのこと『ヨウジさん』って言うと、なんか気安く感じる人とかいるかもしんないじゃない?」

「いたっていいじゃん……だって、気安い男だもん」


「いや、そんなことはないっすよ」

 ジロウが笑って言い、そのあとを真顔になって続ける。

「ヨウジさん、いや『マスター』は、男の中の男ですからねぇ……」

「いい加減にしろ」


 話の結論は、特になかった。

 ヨウジをそう呼ぶ人間が増えていけば、自然とそうなっていくだろう。

 いまはまだ三人の中にも、多くの客の中にも、先代のマスターが生きている。


「さあ、店を開けるぞ」

 コウは、今日は誰かキス・オブ・ファイアかソルティー・ドッグを頼んでくれないかなと思った。

 スノウスタイルの担当になったからだ。



「だってヨウジくんは、マスターじゃないの」

 明子さんがヨウジに言う。

 三人は、自分たちの店がひけてから『マーサ』に寄った。

 コウがここに連れてこられたのは、初めてだ。

「ママさんがいちばん抵抗あるかなって思ったんですけど」

「なに言ってんのよ」

 明子さんは以前より気さくというか、遠慮なく話すようになっている。

「あんたが責任者なんだから、そう呼ばれたほうが自覚ができていいのよ」

「かなわないっすね」


「ママさんにそう言われたんじゃ決定ですね」

 ジロウが嬉しそうに言った。

「ますたあ」

 コウが笑顔でヨウジの肩を叩く。

「まぁ、どうにでもしてくれよ、マスターでも飲み屋のオヤジでも、なんでもいいや」

 そうヨウジは答えて、ビールを流し込む。

(なんでもいいよ、さびしいウサギとかじゃなけりゃ……)


「あたし、ママさんって好きです」

 コウが明子さんに言う。

「あら、それはどうもありがとう。

 若い人はいいよねぇ、好きなものは好きって言えて、ねっ、ヨウジくん」

「おれに振らないでくださいよ……」

 ジロウが割って入る。

「いや、言えない人もいると思います。でも、ヨウジさんはもう若くないか……」

「……おまえ、クビな」

「それって職権(しょっけん)濫用(らんよう)じゃないすか……マスター」


オフィーリアが川面に浮かぶあの絵画

最初にみたときは何かと思いました

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