霧の奥の小さな社
雨が上がったあとの追兎天神は、いつもより少しだけ静かだった。
空にはまだ薄い雲が残っているけれど、もう降り出しそうな気配はない。
しっとり濡れた石畳も、葉の先に残る雨粒も、どこかやわらかく光っていた。
「今日は、くろみつも一緒なんだね」
みこがそう言うと、つむぎは腕の中の黒猫をそっと見下ろした。
「……うん。なんだか、今日は連れてきたほうがいい気がして」
「そういう日って、あるよね」
「……ある」
つむぎの腕の中で、くろみつは静かに目を細めていた。
いつもならもう少し気まぐれそうにするのに、今日は妙に落ち着いている。
一方で、みこの足元にはしらたまがいた。
白い毛並みをぴんと整えたまま、こちらも珍しくじっとしている。
「ふたりとも、なんだか今日はおとなしいね」
みこがそう言うと、しらたまは一度だけしっぽをゆらした。
みこの家であり、追兎天神でもあるこの場所は、つむぎにとっても少しずつ慣れてきた居場所のひとつだった。
今日は学校帰りにそのまま遊びに来て、縁側の近くでふたりでお茶を飲みながら話していた。
収穫祭のこと。
最近の学校のこと。
駅であった小さなこと。
大きな話ではない。
でも、こうしてぽつぽつ話している時間は、つむぎにとって案外好きなものになっていた。
「それでね、その時マリちゃんが――」
みこが楽しそうに話していた時だった。
ふと、つむぎが顔を上げる。
「……あれ」
「どうしたの?」
「しらたまと、くろみつ」
見ると、さっきまでそばにいたはずの二匹が、少し離れた庭先のほうをじっと見ていた。
しらたまは耳をぴんと立て、くろみつはつむぎの腕の中からするりと抜け出して、濡れた石の上に静かに降りる。
「どうしたんだろう」
みこも立ち上がった、その時だった。
空気が、すうっと変わった。
境内の向こうから、白いものが流れてくる。
「……霧?」
みこが小さくつぶやく。
雨あがりのせいだろうか。
それにしては、ずいぶん急だった。
白い霧は、まるで音もなく追兎天神を包みこむように広がっていく。
石段の下も、鳥居の向こうも、木々のあいだも、あっという間に白く霞んでいった。
「すごい……」
みこは思わず息をのむ。
つむぎも、何か言おうとして、でも声にならなかった。
霧の向こうに、赤い色が見えたからだ。
白の中に、ぽつりと浮かぶ赤。
人影のように見えた。
「……あれ」
みこが目を凝らす。
霧の向こうに立っていたのは、赤い服を着た、小さな誰かだった。
その姿はぼんやりとしていて、はっきりとは見えない。
けれど、その輪郭にはどこか見覚えがあった。
「……あまねちゃん?」
思わず、みこがそうこぼす。
つむぎは不思議そうにみこに聞く。
「あまねちゃんって、誰?」
みこはつむぎに、あまねのことを話していたその瞬間、
しらたまとくろみつが同時に走り出した。
「えっ、しらたま!」
「くろみつ……!」
二匹は迷いなく、霧の奥の赤い人影へ向かっていく。
「待って!」
みことつむぎも、とっさにそのあとを追った。
濡れた石畳を駆ける。
しらたまの白い背中と、くろみつの黒い影は、霧の中でも不思議とよく見えた。
その先にいる赤い人影――あまねも、はっきりではないけれど、たしかに立っていた。
しらたまとくろみつは、その前までたどりついている。
そして、あまねは二匹に向かって、何かを話しているように見えた。
口元が、静かに動いている。
「みこ……」
「うん、見えてる……」
声は聞こえない。
けれど、たしかに会話をしているようだった。
みことつむぎは、さらにそのほうへ走った。
「待ってーっ!」
みこが声を張る。
けれど、不思議なことに、いくら走っても距離が縮まらない。
足はちゃんと前に出ている。
地面を蹴る感覚もある。
それなのに、あまねの姿は少し先に見えたままだ。
「なんで……っ」
みこが息を切らす。
つむぎも黙ったまま走るが、やはり届かない。
やがて、あまねはゆっくりこちらを振り返った。
表情までは見えない。
でも、一度だけ、みことつむぎのほうを見た気がした。
それから、しらたまとくろみつを連れて、霧の奥へ歩いていく。
「待って!」
みこはもう一度叫ぶ。
つむぎも必死についていく。
けれど白い霧は深くなるばかりで、赤い影は少しずつ、少しずつ遠ざかっていった。
そして、気づけば見失っていた。
「……あれ?」
みこは立ち止まり、あたりを見回した。
どこも白い。
木々も、石も、見慣れたはずの境内も、全部がぼんやりしている。
「つむちゃん、大丈夫?」
「……うん」
つむぎも足を止めていた。
「でも、ここ……」
その時だった。
風がひとすじ、木々のあいだを通り抜ける。
すると、それを合図にしたみたいに、白い霧が少しずつほどけ始めた。
輪郭が戻ってくる。
濡れた石。
低い木立。
小さな赤い鳥居。
「……あ」
みこが、小さく声を漏らした。
ふたりが立っていたのは、追兎天神の境内の隅にある、小さな稲荷社の前だった。
見慣れているようで、あまりじっくり見たことのない場所。
そして、その社の前には――
「しらたま」
「……くろみつ」
二匹が、きちんと並ぶように座っていた。
まるで最初から、ここで待っていたみたいに。
みことつむぎは、しばらく言葉を失ったまま、その小さな社を見つめていた。
赤い鳥居。
こぢんまりとした屋根。
その下の小さなお社。
そして、よく見れば。
「……あれ」
みこが、そっと近づく。
「けっこう、汚れてるかも」
つむぎも隣に来て、静かに目を向けた。
たしかに、社の屋根には薄く埃がたまり、端のほうには落ち葉も引っかかっている。
雨で流れたところもあるけれど、それでも長いあいだきちんと手入れされていなかったような跡が見えた。
「追兎天神の中にあるのに……」
みこは少し申し訳なさそうに言う。
「毎日いるのに、あんまりちゃんと見てなかったかも」
つむぎは社の前にしゃがみこんだ。
石のまわりにも、濡れた葉がへばりついている。
「……掃除、しよう」
「えっ」
「きれいにしたら……いい気がする」
みこはその言葉を聞いて、もう一度社を見た。
霧の向こうの赤い影。
しらたまとくろみつ。
近づけなかったあまねの姿。
あれが何だったのかは、わからない。
でも。
「……うん。そうだね」
みこも、こくりとうなずいた。
「きっと、そうしたほうがいい気がする」
ふたりは社のまわりの落ち葉を拾い始めた。
濡れて張りついた葉は取りにくかったけれど、つむぎは慣れた手つきで少しずつ集めていく。
みこは社の屋根の下に手を伸ばし、たまっていた小さなごみを払った。
しらたまとくろみつは、そのそばでおとなしく座っている。
「つむちゃん、ほうき持ってくる!」
「……私、ぞうきん持ってくる」
いったん戻って道具を持ってきてからは、ふたりで黙々と掃除を続けた。
濡れた石を拭く。
葉を集める。
鳥居の足元の泥を払う。
大きな社ではないから、ふたりでやればそこまで時間はかからない。
けれど、小さいからこそ、少しきれいになるだけでもずいぶん印象が変わった。
「……きれいになった」
つむぎがぽつりと言う。
「うん」
みこも笑った。
「なんか、さっきよりちゃんと息してる感じする」
それは変な言い方だったかもしれない。
でも、つむぎは少しだけ目を細めてうなずいた。
「……わかる」
掃除を終えた社の前に、ふたりで並んで立つ。
しらたまとくろみつも、その足元にいた。
さっきまであたりを包んでいた霧は、もうきれいに消えている。
雨あがりのやさしい空気だけが、静かに残っていた。
「ねえ、つむちゃん」
「……うん?」
「さっきの、ほんとにあまねちゃんだったのかな」
つむぎは少し考えてから、静かに首を傾けた。
「……わからない」
「だよね」
「でも」
つむぎは、小さな社のほうを見る。
「ここを、見てほしかったのかも」
みこも、同じように社を見た。
「神さまの使い、とか?」
「……かもしれない」
はっきりとは言わない、その答え方がなんだかつむぎらしくて、みこは少しだけ笑った。
「もしそうなら……」
みこは、掃除して少し明るくなった社に向かって、小さく言った。
「ありがとう、なのかな」
その時、風がふわりと吹いた。
木の葉が揺れて、社の屋根の先に残っていた雨粒が、ひとつ落ちる。
しらたまが目を細める。
くろみつは静かにしっぽを揺らした。
まるで、それで正解だと言われたような気がして、みことつむぎは顔を見合わせた。
それから、どちらからともなく笑う。
「……なんだったんだろうね」
「……うん。でも、悪いものじゃなかった」
「うん。わたしも、そんな気がする」
小さな社は、さっきよりずっときれいに見えた。
そしてその前に並ぶ二匹も、どこか満足そうに見える。
雨あがりの追兎天神には、もういつもの静けさが戻っていた。
でもきっと、今日のことは、みことつむぎの中にしばらく残るのだろう。
少しだけ不思議で、少しだけ神さまで、
そしてどこかやさしい、霧の奥の出来事として。




