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ひとひらびより  作者: 追川雪乃(追兎電鉄広報部)
お嬢様も、いつもの駅で

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“さん”の向こう側


 収穫祭が終わって数日。

 追兎天神駅は、いつもの落ち着いた空気を取り戻していた。

 祭りの日のにぎわいが嘘みたいに、改札前には見慣れた朝が流れている。

 それでも、まるきり元通りというわけではなかった。


「うさ姉さまっ、おはようございますっ!」


 元気よく駆けてくるみこの声は、今日も駅の奥まで響いているし、


「収穫祭、ほんとうに楽しかったですわね」


 と微笑むアリスの声にも、まだ少しだけ余韻が残っている。

 そしてつむぎも、前より少しだけ、みんなの輪の近くにいるようになっていた。

 いろいろなことがあって、五人は前よりずっと仲良くなってきていた。


 ――ひとりを除いて。


「おはようございます、うさぎさん」

「おはようございます、マリーさん」

「みこさん、あまり走ってはいけません」

「つむぎさん、お手伝いありがとうございます」


 しおんだけは、相変わらずだった。

 うさぎにも、マリーにも、みこにも、つむぎにも、きっちり「さん」がつく。

 それがしおんらしいと言えば、たしかにそうなのだけれど。


「……ねえ」


 休憩室でお茶を飲んでいたマリーが、湯呑みを置いて言った。


「しおんちゃんだけ、まだちょっと遠くない?」


 その言葉に、うさぎは思わず顔を上げた。


「遠い、って?」

「呼び方だよ、呼び方」


 マリーは、人差し指を一本立てる。


「ほら、アタシたち、もうけっこう仲良しじゃん?」

「そう……だね」

「なのに、しおんちゃんだけずっと“うさぎさん”“マリーさん”“みこさん”“つむぎさん”なんだよ」

「た、たしかに……!」


 みこが目を丸くする。


「わたし、いま気づきましたっ」

「遅いよ、みーちゃん」

「でもでもっ、言われてみれば、ほんとです!」


 アリスも、うんうんと上品にうなずいた。


「たしかにしおんは、わたくしには昔からこうですけれど……皆さんには、もう少しくだけてもよろしい気がしますわ」


 つむぎも、小さく口を開く。


「……少しだけ、わかります」

「でしょ?」


 マリーは、してやったりという顔になった。


「つまりだね。今日の目標は、しおんちゃんにもっと近い呼び方をしてもらうことです」

「今日の目標って……」


 うさぎは苦笑したが、心のどこかで少しだけわくわくしている自分にも気づいていた。

 たしかに、しおんが「うさちゃん」とか「マリーちゃん」とか呼ぶところは、まだ想像しにくい。

 でも、もし呼んでくれたら――きっと、ちょっとだけうれしい。


「……何やら、よろしくない相談をされている気配がいたします」


 しおんが、湯呑みを持ったまま静かに現れた。

 その後ろから、アリスが楽しそうに顔をのぞかせる。


「しおん、ちょうどよかったですわ」

「よくありません、アリス様。そのお顔は、たいてい私にとってよくない時のお顔です」

「しおんちゃん!」


 みこが、ぴんと手を挙げた。


「はい」

「どうして、わたしたちのこと、まだ“さん”付けなんですかっ?」


 しおんが止まった。

 本当に、ぴたりと止まった。

 その間があまりにもわかりやすくて、マリーが吹き出しそうになる。


「それは……」


 しおんは一度視線を落とし、それからいつもの落ち着いた声で答えた。


「癖、のようなものです」

「癖?」

「はい。皆さんは大切なお友達ですし、ぞんざいに呼びたくないというか……」

「ちゃん付けは、ぞんざいじゃないよ!?」


 マリーが即座に食いつく。


「いや、そういう意味ではなく……」

「じゃあ、呼べるってこと?」

「理屈の上では」

「よし、じゃあやってみよう」

「なぜそうなるのです」


 しおんの眉が、ほんの少しだけ困ったように寄る。

 それを見て、うさぎは少しだけおかしくなった。

 しおんは完璧そうに見えて、こういう時だけ露骨に困る。


「えっと……」


 うさぎが、少しだけ助け舟を出すように言った。


「別に、無理にじゃなくてもいいんだけど」

「うさぎさん……」

「でも、ちょっとだけ聞いてみたいかも」


 その一言に、しおんは今度こそ完全に言葉に詰まった。

 マリーがすかさず前に出る。


「はい、じゃあ練習ね。まずは一番簡単そうなところから。みこちゃん」

「はいっ!」

「しおん、言ってみて」

「何をです」

「“みこちゃん”」

「…………」

「しおんさんっ、がんばってください!」

「みこさん、応援する側に回らないでください」

「えへへ……」


 しおんは、しばらく本気で考え込んだ末、ようやく小さく口を開いた。


「み……」


 全員が身を乗り出す。


「みこ……ちゃん」

「おしいーっ!」


 みこが叫ぶ。


「惜しくないです。いつも通りです」

「次、うさちゃん!」


 マリーが勝手に進行する。


「しおんちゃん、“うさちゃん”だよ」

「……難易度が上がっていませんか」

「そんなことないよ」


 うさぎが言うと、しおんはなぜかさらに困った顔をした。


「うさ……」


 そこまで言って、しおんはぴたりと止まる。

 耳が、ほんの少し赤い。


「……やはり、今日はやめておきましょう」

「逃げた!」

「逃げておりません。戦略的撤退です」

「同じだよ!」


 そんなふうにして、休憩室はしばらく笑い声でいっぱいになった。


 その日、駅では季節の案内板や掲示物の入れ替え作業があった。

 収穫祭の案内を外して、秋の行楽シーズン向けのポスターに替えるのだ。


「これ、上のほうですよね?」


 アリスが小さな脚立を見上げながら言った。


「わたくし、やってみたいですわ」

「アリス様、無理はなさらないでください」

「だいじょうぶですわ。これくらい、ちゃんとできますもの」


 そう言って、アリスはしおんの制止より先に脚立に足をかけた。


「アリスちゃん、気をつけてね」

「はいですわ!」


 うさぎは脚立の近くでポスターの端を持ち、しおんは少し離れた位置で押しピンの箱を整理していた。マリーは新しい掲示物を机の上に並べ、みことつむぎは外した案内をまとめている。


「アリス様、左が少し曲がっております」

「こちらですの?」

「もう少し右です」

「右……右って、しおんの右? わたくしの右?」

「アリス様の右です」

「わかりましたわ。えいっ」


 その瞬間だった。


 脚立の足が、がた、と小さく鳴った。


「あっ」


 アリスの身体が、ふらりと揺れる。


「アリス様!」


 しおんの声が響いた。

 けれど、しおんのいる場所からでは一歩遅い。

 いちばん近くにいたのは、うさぎだった。

 そしてその瞬間、しおんは考えるより先に叫んでいた。


「助けて、うさちゃん!」


 うさぎは反射的に脚立へ駆け寄り、落ちかけたアリスを受け止めた。


「わっ……!」

「アリスちゃん、大丈夫!?」

「は、はい……っ」


 脚立は倒れたが、アリスは落ちずに済んだ。

 しおんもすぐに駆け寄って、アリスの肩にそっと手を添える。


「お怪我はありませんか」

「だ、大丈夫ですわ……ちょっとびっくりしましたけれど」


 そこでようやく、部屋の中がしんと静かになっていることに気づいた。


 マリーが、にやりとする。

 みこは、きらきらした目をしている。

 つむぎは静かに、でも確かにこちらを見ていた。


「……いま」


 マリーがゆっくり口を開いた。


「うさちゃんって、言ったよね?」

「はいっ、言いましたよねっ?」


 みこも身を乗り出す。


「うさちゃんって……言った」


 つむぎが、ぽつりと追い打ちをかける。

 うさぎはアリスを支えたまま、目をぱちぱちさせていた。


「えっ……今……」


 しおんは、一拍遅れて固まった。

 それから、みるみるうちに耳まで赤くなる。


「…………」

「しおん?」


 アリスが不思議そうに見上げる。


「その……今のは」


 しおんは咳払いをひとつした。


「緊急時でしたので」

「うん」

「呼びやすさを優先しただけです」

「へえー?」


 マリーが、まったく信じていない声を出す。


「じゃあ今後も緊急時は“うさちゃん”なんだ」

「そういう話にはしておりません」

「でも、出たんですね」


 しおんは、つむぎの静かな一言にさらに詰まった。


「……出てしまったものは、仕方ありません」

「しおんちゃん」


 みこが、なぜか自分のことのようにうれしそうに言う。


「すごい進歩ですっ!」

「進歩、と言われるのも少々複雑なのですが……」


 そう言いながらも、しおんは完全には否定しなかった。

 うさぎは、そんなしおんを見て、なんだか胸の奥が少しだけくすぐったくなるのを感じた。


 とっさに出た呼び方。


 たぶん、しおんは本当に無意識だったのだろう。

 だからこそ、うれしかった。


「でも、ありがとう」


 うさぎがそう言うと、しおんは目を伏せた。


「いえ。うさ――」


 そこで、しおんはまた止まった。

 みんなの視線が集まる。


「……うさぎさんが近くにいてくださって、助かりました」

「いま惜しかった!」


 マリーが即座に言う。


「惜しくありません!」

「惜しかったですっ!」

「みこさんまで……」


 結局、その場はまた笑い声に包まれた。


 作業を再開したあとは、さっきまでより少しだけ空気がやわらかかった。


 しおんは相変わらず、みこにもマリーにもつむぎにも「さん」をつけていたけれど、それでもさっきまでとは何かが違っていた。


 壁がなくなったわけではない。

 けれど、その向こう側が見えた気がする。


 作業が終わって、みんなで休憩室に戻る頃には、外は少しだけ夕方の色になっていた。


「今日は大収穫だったねー」


 マリーが満足そうに言う。


「ポスターもきれいに貼れましたしっ」

「脚立は、もう少し慎重に使ってくださいませ、アリス様」

「はいですわ……」


 しおんに言われて、アリスは素直にしゅんとする。

 けれど、その顔はどこか楽しそうだった。


「でも」


 アリスは、ふとしおんを見上げた。


「しおんちゃんが慌てるところ、ちょっと珍しかったですわ」

「……それは、アリス様が危なかったからです」

「それだけではありませんわよね?」

「アリス様」

「うふふ」


 アリスは、どこか満足そうに笑った。


 みこも、湯呑みを両手で持ちながら言う。


「わたし、今日ちょっとわかりました」

「何がですか?」

「しおんちゃん、ちゃんと近くなってるんだなって」


 しおんは少し驚いたように、みこを見る。


「呼び方はまだ“さん”でも、きっと心の中ではもっと近いんですよね」


 その言葉に、しおんはすぐには答えなかった。


 しばらくしてから、静かに息をつく。


「……皆さんのことを、大切に思っているのは本当です」


 それだけ言って、しおんは少しだけ視線をそらした。

 その横顔が、少し照れて見えた。


「じゃあさ」


 マリーが、にやにやしながら言う。


「次の目標は、“マリーちゃん”ね」

「まだ続くのですか」

「もちろん!」

「わたくしもですわ!」

「わたしも、いつか“みこちゃん”って呼ばれたいですっ!」

「……私も」

「つむぎさんまで」


 しおんは、とうとう観念したように小さく笑った。


「……少しずつ、慣れていきます」


 その言い方は、いかにもまだしおんらしかった。

 でも、六人の中ではもう、それで十分だった。


 いきなり全部は変わらない。

 呼び方も、距離も、たぶん少しずつでいい。

 そうやって近づいていくのが、きっと今の自分たちらしいのだと、うさぎは思った。


****


 そしてその日の帰りぎわ。


 改札の前でみんなと別れる時、しおんがふと、うさぎのほうを向いた。


「……先ほどは、本当にありがとうございました」

「ううん。アリスが無事でよかった」


 うさぎがそう返すと、しおんはほんの少しだけためらってから、


「ありがとう、うさちゃん」


 と、小さな声で言った。


 一瞬、時間が止まったような気がした。

 うさぎが目を丸くする横で、少し離れたところにいたマリーが、すぐにこちらを振り返る。


「いま言った!?」

「聞こえてましたっ!」

「……聞こえておりました」

「やっぱり言った」


 つむぎの声まで重なって、しおんはとうとう顔を赤くした。


「今のは、その……先ほどの続きです」

「続きでもなんでも、言ったことには変わりないよね?」


 マリーがにやにやする。

 みこはもう、うれしそうにその場で小さく跳ねていた。


 しおんは深く息をついてから、困ったように、それでもどこかやさしい顔になっていた。

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