しおんちゃんの休日
今日は日曜日。
駅のお仕事はない。
追兎天神駅へ向かう必要のない朝というだけで、少しだけ調子が狂う。
アリスは朝早くに出かけていった。
机の上には、短いメモが一枚だけ残されている。
『探検隊に行ってきますわ』
正直に話すと、わたしが止めると思って先に出ていかれたのでしょう。
……いえ、きっとそうですわね。
それに今日は、アリスと一緒にいる予定もなく、駅のお仕事もなく、特別な用事もない。
「……困りましたわね」
することが、ない。
部屋の整頓は済ませた。
紅茶も淹れた。
本も少し読んだ。
それでも、まだ午前中だった。
有栖院家のメイドの仕事も、アリス様のお世話をするため実質的に免除されている。
もともと、追兎天神駅に行く前も、しおんの主な仕事はアリスのお世話が中心だったから、当然と言えば当然だけれど。
けれど、だからこそ困る。
何をしてよいのかわからない、というのは、思ったより落ち着かないものだった。
「……一度、街に行ってみようかしら」
そう口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
目的もなく外へ出るなんて、いつぶりだろう。
けれど、今日は休日だ。
少しくらい、そういうことがあってもよいのかもしれない。
しおんは静かに立ち上がると、鏡の前に立った。
黒いワンピース。
白いエプロン。
整えた襟元。
そして、白い猫耳カチューシャ。
最初はアリスに言われて着けた猫耳カチューシャだった。
けれど今では、それももう自分の一部のように思えている。
なにより――
かわいい。
それは、認めてよいことのような気がした。
しおんは鏡の前で猫耳の位置を少しだけ整えて、小さくうなずく。
「……これでよろしいですわね」
そうして、いつも通りの支度で家を出た。
街は、しおんが思っていたよりもずっと賑やかだった。
日曜日ということもあって、人通りが多い。
駅の近くとはまた違う、どこか華やいだ空気がある。
しおんは通りを歩きながら、きょろきょろしないよう気をつけつつ、でもしっかり周囲を見ていた。
かわいい雑貨のお店。
服屋さん。
アクセサリーのお店。
甘い香りのするお菓子屋さん。
「……街というのは、こうも誘惑が多いのですね」
小さくつぶやきながら歩いていると、すれ違う人たちの声が、ふと耳に入った。
「見て、メイドさんだ」
子どもが目を輝かせて言う。
「あ、猫耳かわいい」
少し先では、若い女の子たちが楽しそうに話している。
年配の女性は、すれ違いざまにやわらかく微笑んでいた。
どうやら、メイド服や猫耳のことを言っているらしい。
しおんはそれを聞いて、ほんの少しだけ胸の奥があたたかくなるのを感じた。
褒められたのだろうか。
そうだとしたら、少しうれしい。
そんな気持ちのまま歩いているうちに、ある雑貨店の前で足が止まった。
店先に並んでいたのは、ふわふわした耳のついたカチューシャだった。
ネコ耳。
白に黒に、少しだけレースのついたものまである。
しおんは無言で見つめた。
「…………」
かわいい。
非常に、かわいい。
しばらく見つめてから、しおんは小さく首を振る。
「いえ。さすがに、これは」
そう言いかけたものの、視線がまた戻る。
ネコ耳である。
しかも、形が綺麗だ。
安っぽくも見えない。
「……予備として持っていても、よいのではありませんか」
誰に言い訳するでもなく、しおんは小さくつぶやいた。
「何事にも備えは必要ですし」
何の備えなのかは自分でもわからなかったけれど、言葉にしてみると、それらしい気もする。
しおんは少し迷ったあと、白いネコ耳カチューシャをひとつ手に取った。
「予備、ですわね」
そう念を押すように言ってから、レジへ向かった。
「こちら一点でよろしいですか?」
「はい」
「いま着けているものとお揃いですね。……よく似合いそうです」
「ありがとうございます」
しおんが真面目に返すと、店員は少しだけ幸せそうな笑顔になった。
次にしおんが足を止めたのは、服屋だった。
店内には、明るい色のワンピースや、ふんわりしたスカート、リボンのついたブラウスが並んでいる。
普段のしおんなら、通り過ぎていたかもしれない。
けれど今日は、休日だった。
「……見るだけなら」
そう言って入った時点で、すでに少し負けている気がした。
けれど、入ってしまったものは仕方がない。
「いらっしゃいませ」
店員が笑顔で近づいてきて、そして一瞬だけ、しおんの全身を見た。
その目には驚きがあった。
けれど、それは嫌なものではなかった。
「何か問題がございましたか?」
「い、いえっ。問題ではなくて……とても素敵なお召し物でしたので」
「ありがとうございます」
しおんは静かに頭を下げる。
すると店員は、やわらかく笑った。
「普段着を見たいのですが」
「はい、もちろんです。ご自分用でしょうか?」
「はい」
「……でしたら、お似合いになりそうなものを一緒にお選びしますね」
その言い方が親切で、しおんは少しだけ安心した。
しおんは丁寧に服を見て回った。
やわらかい色。
繊細なレース。
袖の形。
スカートの広がり方。
「かわいらしいですね……」
思わずそんな言葉がこぼれる。
店員はそれを聞いて、嬉しそうに頷いた。
「よろしければ、いくつかご試着なさいますか?」
「……では」
それからしばらくして、しおんの手には試着用の服が数着抱えられていた。
「……見るだけ、ではありませんでしたね」
試着室に入って、ひとり小さく反省する。
けれど、せっかくここまで来たのだから、着てみるのも経験だろう。
最初は淡い色のワンピースだった。
鏡の前に立つと、思ったより悪くない。
しおんはそっと裾を整えて、少しだけ身体の向きを変えてみる。
「……こうでしょうか」
次はブラウスとスカートの組み合わせ。
少しだけ大人っぽい雰囲気になる。
「こちらも、悪くはありませんね」
少しだけ顎に手を当てて、鏡の前で考える。
それから、ほんのわずかにポーズまで取ってしまって、はっとした。
「……こんなところ、見つかったら大変ですね」
誰に見つかるのかと言えば、もちろんアリス様や、うさぎたちだろう。
そんなところを想像して、しおんは少しだけ頬を押さえた。
けれど。
「……あと一着だけ」
結局、もう一着試した。
そして最後に手に取ったのは、黒と白を基調にした服だった。
フリルはあるけれど落ち着いていて、どこか今の自分の装いにも通じるものがある。
鏡の前に立ったしおんは、その姿をしばらく見つめた。
「……やっぱり」
小さく、でも自然に言葉がこぼれる。
「わたしには、これが一番しっくりきますね」
華やかな服もかわいかった。
明るい色も素敵だった。
けれど、落ち着いた色合いで、どこかメイド服にも似た雰囲気の服を見ると、不思議と安心した。
いろいろ試したからこそ、よくわかる。
しおんは少しだけ満足した気持ちで、試着室を出た。
店員はしおんの姿を見るなり、目をやわらかく細めた。
「とてもお似合いです」
「そうでしょうか」
「はい。……普段のお召し物の雰囲気にも、少し近いですし」
「なるほど」
しおんは納得したように頷いた。
「では、こちらにいたします」
「ありがとうございます」
店員はそう答えながら、どこか楽しそうでもあった。
そのあと、しおんは街をもう少し歩いた。
休日の空気は、思ったより悪くない。
知らないものが多くて、少し落ち着かないけれど、それでもどこか新鮮だった。
そして、ふと足を止める。
「……メイド喫茶」
看板にそう書いてあった。
しおんはしばらく、その文字を見つめた。
メイド。
その響きには、聞き捨てならないものがある。
「……喫茶、ということは、お茶をいただく場所なのでしょうか」
小さくそうつぶやいて、もう一度看板を見る。
けれど、ただの喫茶店にしては、どこか雰囲気が違う気がした。
入口も、飾りつけも、看板の文字も、妙にかわいらしい。
「……気になりますね」
しおんは少しだけ考えてから、そっと店の前に立った。
知らないものを、そのまま知らないままにしておくのは、あまり好きではない。
それに、メイドと名がつく以上、何か学べることがあるのかもしれない。
そう思って、しおんは静かに扉を開けた。
「お帰りなさいませ、お嬢さまー♡」
「……!」
しおんは一歩目で、少しだけ固まった。
予想以上だった。
店内は明るく、かわいらしく、店員たちはみんな笑顔で、どこか独特の空気をまとっている。
けれど、その空気はしおんの姿を見た瞬間、ほんの少しだけ揺れた。
「……え?」
「ちょっと待って、あの人……」
「なんか……すごくない?」
小さなざわめきが広がる。
無理もない。
店のメイド服は、フリルが多くて可愛らしい。
見せるための服で、楽しませるための装いだ。
それに対して、しおんの服は違う。
飾るためではなく、仕えるための服。
立ち姿も、手の置き方も、視線の落ち着き方も、自然とそれが出てしまう。
「お、お嬢様、おひとりでしょうか?」
「はい」
案内する女の子の声が、少しだけ緊張していた。
席につくまでの間も、近くのメイドたちがちらちらとこちらを見ているのがわかった。
「本物っぽい……」
「え、でもほんとに?」
「姿勢きれいすぎない……?」
しおんはその視線に気づいていたけれど、その意味までは深く考えず、静かに席についた。
そして真剣な表情で、店内を観察し始める。
接客の笑顔。
声の高さ。
お辞儀の角度。
料理の出し方。
細かい気配り。
「なるほど……」
思わず感心してしまう。
参考になるところは多い。
そうしているうちに、注文した飲み物が運ばれてきた。
持ってきたメイドの少女は、まだ少しだけそわそわしている。
「で、では、ご一緒においしくなる魔法をかけますね♡」
「……はい?」
しおんは顔を上げた。
目の前のメイドは、にこにこと笑っている。
けれど、その笑顔はほんの少しだけ硬い。
たぶん、この人の前でこれをやって大丈夫なのか、と迷っているのだろう。
「美味しくなぁ〜れ♡」
「……」
しおんは固まった。
なにか、とんでもないものを見てしまった気がした。
ずっとメイドをしてきた。
礼儀も、所作も、紅茶の淹れ方も、接し方も学んできた。
けれど――
「こんな秘技があるとは……」
思わず小さくつぶやいてしまう。
「えっ?」
「あ、いえ。なんでもありません」
しおんは姿勢を正したが、心の中は大きく揺れていた。
美味しくなぁ〜れ。
そのような技法が、この世には存在したのか。
しかも、あれほど自然に。
あれほど笑顔で。
なんという奥深さだろう。
「わたくし、まだまだですわね……」
少しだけ打ちのめされたような気分になりながらも、しおんは真剣だった。
知らないことを知るのは、負けではない。
学びである。
それならば――
「申し訳ありません」
しおんは静かに言った。
「もう一度、今の“おいしくなぁ〜れ”を見せていただいてもよろしいでしょうか」
「……えっ」
「大変勉強になりますので」
メイドの少女は目を丸くした。
少し離れたところにいた別の子たちも、思わずこちらを見る。
「え、勉強……?」
「やっぱりそういう人なんじゃ……」
「どうしよう、なんかすごい真剣……」
ざわめきは小さいけれど、はっきりと伝わってくる。
けれど、しおんはまったく冗談ではなかった。
「は、はいっ。では、もう一度いきますね♡」
「美味しくなぁ〜れ♡」
今度は最初よりも、しおんはさらに真剣に見ていた。
手の動き。
笑顔の作り方。
声のやわらかさ。
最後の“きゅん”までの流れ。
「……なるほど」
しおんは小さくうなずいた。
「ありがとうございました。大変、勉強させていただきました」
「そ、そうですか……?」
「はい」
その返事も、本気だった。
メイドの少女はまだ少し戸惑ったようにしていたけれど、それ以上は何も言わなかった。
しおんもまた、それ以上は踏み込まない。
今日は、必要なものを十分に見せてもらった。
会計を済ませ、席を立つ。
「いってらっしゃいませ、お嬢さま♡」
「ありがとうございました」
しおんは丁寧に一礼して、店を出た。
扉が閉まる直前、奥のほうで小さく声が聞こえた。
「……やっぱり本物だったのかな」
「わかんないけど、なんかすごかった……」
しおんはそれを聞きながら、静かに外へ出る。
帰り道。
しおんの手には、小さな紙袋がいくつかあった。
白いネコ耳カチューシャの予備。
かわいらしい小物。
そして、自分にはやっぱりこういうものが合うのだと納得した服。
思っていたより、ずっと長い外出になってしまった。
「……休日というのも、悪くありませんね」
ぽつりとこぼした声は、自分でも少し意外なくらい、やわらかかった。
家に戻れば、きっとまたいつもの日常がある。
アリスが探検隊から帰ってきて、にぎやかな話を聞かせてくださるだろう。
その時、お茶を淹れて――
「……美味しくなぁ〜れ……、ですか」
しおんは足を止めて、少しだけ考えた。
やるべきか。
やらざるべきか。
いや、勉強した以上は、一度は試してみるべきではないか。
そうでなければ、本当に身についたとは言えないだろう。
「ですが……」
しおんはほんの少しだけ、遠い目になった。
「アリス様は喜んでくださるでしょうか。それとも……驚かれるでしょうか」
たぶん、その両方だろう。
夕方のやわらかい光の中、しおんは紙袋を抱えなおして、静かに歩き出す。
今日は、何もすることがないはずの一日だった。
けれど終わってみれば、知らないものを見て、知らないことを知って、少しだけ自分のことも知れたような気がする。
しおんにとってそれは、ほんの小さくて、でも確かに特別な冒険だった。




