ケーキ召喚の魔法
その日、追兎天神駅の事務室には、なんとも言えない甘い空気が漂っていた。
原因は、冷蔵庫の中にある。
駅の落とし物として届けられた、小さな白い箱。
きれいなリボンまでかけられていて、どう見ても中身はお菓子だった。
そして、駅長さんが確認したところによると――
「ケーキ、だって」
みこが、ごくりと喉を鳴らした。
隣では、アリスも冷蔵庫のほうをじっと見つめている。
「ケーキですのね……」
「そうみたいだね」
うさぎは苦笑しながら答えた。
その箱は、少し前に駅構内で見つかったものだった。
持ち主はまだ現れていない。
だから今は、冷蔵庫の中で預かっている。
「アリスちゃんのお父さんからじゃない?」
みこが期待に満ちた目で言った。
「食べていい?」
「そう何度もあるわけがありませんわ」
アリスはきっぱり言ったけれど、その視線は冷蔵庫から離れない。
そこへ、ちょうど駅長が書類を持って戻ってきた。
「それは本当に落とし物だからね」
駅長さんは二人の様子を見て、少し笑う。
「食べちゃだめだよ」
「はぁい……」
みこがしゅんとする。
アリスも、残念そうに小さく肩を落とした。
「わかっておりますわ」
そう答えながらも、やっぱり気になるのか、二人とも冷蔵庫のほうをちらちら見ていた。
それからしばらくして。
みこが、もう一度だけ確認するように冷蔵庫の前まで行った。
「……あれ?」
「どうしたの、みこちゃん?」
うさぎが声をかけると、みこは冷蔵庫の扉を開けたまま振り返った。
「ありません」
「え?」
アリスもすぐに立ち上がって、冷蔵庫をのぞきこむ。
「ほんとうですわ」
さっきまであったはずのケーキの箱が、きれいさっぱり無くなっていた。
一瞬、みんなが黙る。
先に口を開いたのは、うさぎだった。
「……じゃあ、落とし主が現れたのかな」
「そうかもしれませんね」
駅長がうなずく。
「よかったね。ちゃんと持ち主のところに戻ったなら」
「うん……」
みこは小さくうなずいた。
アリスも、そっと息をつく。
「きっと、そうですわね」
落とし物が、ちゃんと持ち主のもとへ戻る。
駅としては、それがいちばんいい。
それでも――。
「……ケーキ、食べたかったなぁ」
みこがぽつりとつぶやいた。
「だって、ケーキです」
ちょっとだけ口をとがらせる。
「とてもおいしそうでした」
アリスも、少しだけ目を伏せた。
「……わたくしも、少しそう思ってしまいましたわ」
「アリスちゃんまで」
「食べてはだめなものだとはわかっておりますのよ」
アリスは真面目な顔で言った。
「でも、気になるものは気になります」
「それはそうだけど……」
うさぎは困ったように笑って、それからふいに立ち上がった。
「わたし、ちょっと向こう見てくるね」
「はいです」
「いってらっしゃい」
うさぎはそのまま、事務室を出ていった。
みことアリスは、しばらく冷蔵庫の前に並んだまま立っていた。
もう中には何もない。
なのに、なぜか少しだけ名残惜しい。
「……あのケーキ、お誕生日のケーキだったのかな」
みこがぽつりと言った。
「お誕生日?」
「だって、箱がかわいかったし、リボンもついてたし……」
みこは少し考えながら続ける。
「もしかしたら、誰かのお祝い用だったのかなって」
アリスはその言葉に、ふむ、と小さくうなずいた。
「たしかに、そうかもしれませんわね」
「ちゃんと持ち主のところに戻れて、よかったです」
「ええ」
アリスの声も、少しやわらかくなる。
「きっと、待っていた方がいらしたはずですもの」
「うん」
「お祝いしてもらえたなら、よかったですわ」
そこまで言って、アリスは少しだけ間を置いた。
「……それはそれとして、食べたかったですが」
「ですよね」
二人は同時に、しょんぼりした。
「ケーキ……」
「ケーキですわね……」
そこへ、事務室の扉が開いた。
「ただいま」
戻ってきたのは、うさぎだった。
みことアリスは、同時に顔を上げる。
「うさ姉さま」
「うさぎちゃん」
その声に、うさぎは二人を見て、なんとなく事情を察したように笑った。
「そんな顔しなくても」
「してません」
「しておりませんわ」
「してるよ」
うさぎはくすっと笑って、それから少しだけもったいぶるように言った。
「じゃあ、ケーキ召喚の魔法をかけようか?」
二人の目が、同時に丸くなる。
「そんなことできるの?」
みこが真っ先に聞いた。
「できますの?」
アリスまで、ちょっと前のめりになる。
うさぎはすました顔でうなずいた。
「見てて」
そして、わざとらしく冷蔵庫の前に立つと、すっと手をかざした。
「◎※△?■……」
「おお……」
みこが感心したような声を漏らす。
アリスも息をのんで見守っている。
うさぎは何度かもっともらしく指先を動かしてから、そっと冷蔵庫の扉を開けた。
すると――。
「あっ!」
「まあっ!」
そこには、ケーキの箱が入っていた。
さっきまで確かに無かったはずの、小さな白い箱。
みこの目がきらきらと輝く。
「すごいです!」
「本当に出てきましたわ……!」
アリスまで、信じられないものを見るような顔になる。
「うさ姉さまは魔法使いだったの?」
みこが見上げると、うさぎはすぐには答えず、ちょっとだけ得意そうに胸を張った。
「ふふん。どうかな」
「すごいです!」
みこはすっかり信じた顔になる。
「じゃあ今度は、クッキーも出せますか?」
「えっ」
「紅茶に合うものがあると、さらに素敵ですわ」
アリスまで真剣な顔で続けた。
「できれば、小さな焼き菓子の盛り合わせなど……」
「注文しないで」
「みこ、プリンも食べたいです!」
「増えてる増えてる」
うさぎが慌てて言うけれど、みことアリスの目は完全に本気だった。
「うさ姉さまならできます!」
「ええ。今のを見れば、十分に可能性がありますわ」
「そんな信頼のされ方、困るんだけど……」
うさぎが引きつった笑顔になった、その時。
また扉が開いて、マリーが元気よく入ってきた。
「うさちゃん、オレンジジュースも買ってきたよ!」
手には冷えたボトルがある。
みことアリスが、ぴたりと止まった。
「……買ってきた?」
アリスが静かに聞き返す。
「うん?」
マリーはきょとんとする。
「ケーキに合うかなって思って」
一瞬の沈黙。
うさぎが「あっ」と小さく固まる。
アリスが、すっと目を細めた。
「うさぎちゃん」
「はい」
「魔法ではありませんでしたのね?」
「……さっき売店で買ってきました」
素直な白状だった。
みこが目をぱちぱちさせる。
「じゃあ、あの呪文は?」
「それっぽく言ってみただけ」
「信じちゃいました!」
「わたくしもですわ……」
アリスまで少しだけ恥ずかしそうに視線をそらす。
マリーは事情を察して、くすくす笑った。
「なにそれ、おもしろい」
「おもしろくはないよ……」
うさぎは少し照れくさそうに言った。
「だって、あんまり二人ががっかりしてたから」
「うさ姉さま……」
みこがじーんとした顔になる。
「やさしいです」
「ありがとうございます」
アリスも、やわらかく微笑んだ。
うさぎはちょっとだけ視線をそらしながら、冷蔵庫の中の箱を見た。
「落とし物のケーキは食べられないけど」
「こっちは、ちゃんと食べていいケーキだからね」
その言葉に、みことアリスの表情が、ぱっと明るくなった。
「やったー!」
「今度は安心していただけますわ!」
「クッキーは出てこなかったけどね」
うさぎが言うと、みこは元気よくうなずいた。
「でも、ケーキがあれば十分です!」
「オレンジジュースもありますし」
アリスも満足そうに言う。
マリーはにっと笑って、机の上にジュースを置いた。
「ケーキだけだと、ちょっとさみしいかなって」
「マリーちゃんも、ありがとうございます!」
駅長さんは、その様子を見ながらどこかおかしそうに笑った。
「よかったね」
「はいっ」
「はいですわ」
冷蔵庫の中のケーキは、もう落とし物ではない。
ちょっとだけがっかりした午後を、うさぎとマリーがこっそりやさしく変えてくれた、そんな小さなごほうびだった。




