届かないボタン
七夕まつりが終わってから、駅の空気は少しずつ夏に近づいていた。
朝から日差しは明るくて、ホームに立っているだけでも、じんわりと暑い。
それでも、追兎天神駅にはいつものように穏やかな時間が流れていた。
電車が来て、乗る人がいて、降りる人がいて。
その合間をぬって、うさぎたちは駅の仕事を手伝っている。
その日も、うさぎはホームの見回りをしていた。
少し先を歩いていたアリスが、ふと立ち止まる。
「……あら」
「どうしたの、アリスちゃん?」
うさぎが声をかけると、アリスは壁のほうを見上げたまま、小さく指をさした。
「あれですわ」
そこにあったのは、ホームの壁に取りつけられた赤い非常ボタンだった。
みこも気づいて、ててて、と駆け寄ってくる。
「あっ、非常ボタンです!」
「ええ。ですが――」
アリスは、じっと赤いボタンを見上げる。
「とても高いところにありますわね」
「……ほんとだ」
みこも一緒になって見上げた。
うさぎは少し嫌な予感を覚えながら、腕を組む。
「高いところにあるのは、簡単に押せないようにじゃないの?」
「どうしてですの?」
「あなたたちが、非常でもないのに押そうとするからよ」
「ええっ」
アリスが目を丸くした。
「わたくし、まだ押しておりませんわ」
「“まだ”って言ったわよね今」
「言いました!」
「みこちゃんまで元気よく乗らないで」
うさぎが即座にツッコむ。
けれど、みこはもう非常ボタンのほうを見上げて、首をかしげていた。
「でも……」
「なによ」
「本当に非常の時に、押せなかったら困ります」
「……あ」
うさぎは一瞬だけ黙った。
たしかに、言われてみればそうだった。
非常時に使うものなのに、高すぎて届かないのは困る。
それはその通りである。
アリスもこくりとうなずいた。
「そうですわ。非常の時に届かなければ、非常になってしまいます」
うさぎはためしに腕を伸ばしてみた。
背伸びをして、指先をぴんと伸ばす。
「……あれ」
「届きますか?」
「届かない」
「でしょ?」
みこが、なぜかちょっと得意そうに胸を張った。
「でしょ、じゃないのよ」
「うさ姉さまでも届かないなら、大問題です!」
「大問題ってほどでは――」
「では」
アリスがすっと姿勢を正した。
嫌な予感が、もっと強くなる。
「非常時に備えて、押す練習をしなくてはなりませんわね」
「しなくていいのよ!?」
うさぎの声が、ホームに小さく響いた。
しかし、みことアリスの表情は、思った以上に真剣だった。
「たしかに、ぶっつけ本番は危険です」
「非常時ほど、冷静な準備が大切ですわ」
「押すことの準備をしないで!」
うさぎが止めても、二人はすでに“訓練”の方向に気持ちが向いていた。
みこはその場でぴょん、と小さく跳ねる。
「ジャンプなら、少し近づけます!」
「近づくだけで押しちゃだめだからね?」
今度はアリスが、スカートの裾を押さえながら、上品に背伸びをした。
「……ふふ。あと少しで届きそうですわ」
「届きそうにならなくていいの!」
「うさ姉さま、台を使いましょう!」
「使わないの!」
「肩車はどうですの?」
「もっとだめ!」
うさぎは頭を抱えた。
どうしてこの二人は、非常ボタンの前に立つと、こうも前向きになるのだろう。
みこは壁を見上げながら、真剣な顔で言う。
「緊急の時に備えるなら、毎日少しずつ練習するべきかもしれません」
「部活みたいに言わないで」
「本日は背伸び十回から始めましょうか」
「始めないで」
「うさ姉さまも一緒に!」
「やらないの!」
その時だった。
「……みなさん、ホームの真ん中で何をなさっているのですか?」
落ち着いた声がして、うさぎは勢いよく振り返った。
しおんだった。
少し離れたところから、いつもの静かな表情でこちらを見ている。
うさぎは思わず助けを求めるように言った。
「しおんちゃん、ちょうどよかった……!」
「よくありませんわ、しおん」
アリスがきりっとした顔で言う。
「わたくしたちは今、非常時に備えた訓練をしておりますの」
「訓練?」
「非常ボタンが高すぎて届かないのです」
「なるほど」
しおんは非常ボタンを見上げ、それから三人を見た。
みこがこくこくとうなずく。
「うさ姉さまでも届きませんでした!」
「それは少し傷つく報告ね」
「ですので」
アリスは胸に手を当てた。
「いざという時のために、今から押す練習を――」
「なさらなくて結構です」
しおんは即答した。
あまりにも即答だった。
みことアリスが、そろってきょとんとする。
「非常時に備えるお気持ちは立派です」
しおんは穏やかな声で言った。
「ですが、非常ボタンは“練習で押すもの”ではありません」
「そうよね!」
うさぎがすかさず乗る。
「そうでしたか……」
アリスは少しだけ残念そうに瞬きをした。
みこも、しゅんとする。
「じゃあ、本当に非常の時に届かなかったらどうするんですか?」
その問いに、しおんはやさしく答えた。
「その時は、近くにいる大人の方や駅員さんを呼ぶのです」
「なるほどです!」
「一人で無理に何とかしようとしないことも、大切な判断ですよ」
しおんの言葉に、みこは「おお……」と感心した顔になる。
アリスも納得したようにうなずいた。
「たしかに、非常時に一人で背伸びをしている場合ではありませんわね」
「そういうことです」
「よかった……やっと話が通じた……」
うさぎが小さく息をつく。
これで一件落着――そう思った、その時だった。
アリスがふと、しおんを見上げた。
「しおんは届きますの?」
「はい?」
「その非常ボタンですわ」
一瞬、空気が止まる。
うさぎの嫌な予感が、またきれいに当たった。
「しおんちゃんなら届きそうです!」
みこまで目を輝かせる。
「届くか届かないかだけ、試してみましょうか?」
「試さなくていいのよ!?」
「押しませんわ。届くか確かめるだけです」
「その“だけ”が一番危ないの!」
しおんは静かに目を閉じた。
ほんの少しだけ、疲れたように見えた。
「アリス様」
「なんでしょう」
「本日のおやつは、水ようかんをご用意しております」
「……!」
アリスの目が輝いた。
「冷えております」
「行きますわ」
即答だった。
みこもぱっと顔を上げる。
「みこも食べたいです!」
「みこさんの分もありますよ」
「やったー!」
二人はあっさりと非常ボタンから気持ちを切り替え、そのまま駅事務室のほうへ駆けていった。
うさぎは、その後ろ姿を見送りながら、ぽつりとつぶやく。
「……非常じゃない時のほうが、みんな危ない気がするんだけど」
しおんはわずかに微笑んだ。
「それは、私も同感です」
赤い非常ボタンは、そんなやり取りなど何も知らないように、今日も高い場所でじっとしていた。
たぶん明日も、あのままだ。
そしてきっと、また誰かが見上げるのだろう。
うさぎはなんとなくそんな予感がして、少しだけ遠い目をしたのだった。




