窓の灯り
中間試験まで、あと一週間。
その言葉は、教室の空気を少しだけ重くする。
「……いよいよね」
うさぎは机の上に広げた試験範囲表を見ながら、小さくつぶやいた。
数学、現代文、英語、世界史。
ひとつずつ確認していくたびに、やることが頭の中で並んでいく。
並んでいくのに、それに比例するみたいに落ち着かなくなる。
勉強しなくっちゃ。
その言葉が、頭の中で何度も形になる。
「うさちゃん、顔がもう試験前だねえ」
隣の席で、マリーがのんびりした声を出した。
「何よ、その顔って」
「“今夜から本気出します”じゃなくて、“もう一週間前から本気です”の顔」
「だって一週間しかないのよ」
「一週間もあるじゃん」
「一週間しかないの」
うさぎがきっぱり言うと、マリーは肩をすくめた。
「まあ、なんとかなるでしょ」
「そういうのが一番信用できないのよ」
「ひどい」
でも、マリーはまったくへこたれない。
教科書を閉じて、うーんと伸びをする。
その横顔は、いつも通り気楽そうだった。
「マリーちゃんって、昔からそうよね」
「何が?」
「“なんとかなる”って言うところ」
「だって、なんとかなってきたし」
「そういう問題じゃないの」
うさぎはため息をつく。
たしかに、マリーがまったく勉強していないと思ったことはない。
宿題もちゃんと出していたし、テスト前に教科書を開いている姿だって何度も見ている。
でもそれは、うさぎにとってはずっと
“必要な時に、必要なぶんだけやる子”
に見えていたからだ。
計画表を作ったり、何日も前から積み上げたりする自分とは違う。
そういう意味で、マリーは“なんとかなる”側の子なのだと、ずっと思っていた。
「今日から、帰ったらちゃんと勉強する」
「えらいえらい」
「マリーちゃんもよ」
「アタシ?」
「そうよ」
「まあ、なんとかなるって」
「その言葉、試験終わるまで禁止」
「厳しいなあ」
でも、マリーは笑っていた。
その日の夜。
うさぎは自分の部屋で、机に向かっていた。
ノートを開いて、問題集を解いて、間違えたところに印をつける。
わからないところは教科書に戻って、もう一度確認する。
時計を見るたびに、少しだけ焦る。
でも、焦っても仕方がない。
やるしかない。
「……よし、ここまで」
ようやく区切りのいいところまで終えて、うさぎは大きく息をついた。
日付も変わっている。
もう寝る準備をしてもいい時間だ。
うさぎは窓の外を見る。
夜の空気は静かだった。
そこでふと、隣の家が目に入る。
マリーの部屋の灯りが、まだついていた。
「……まだ起きてるんだ」
ただ、それだけなら別におかしくない。
でも、うさぎは何となく窓際に寄った。
カーテンの隙間から見えたのは、机に向かうマリーの姿だった。
ノートが何冊も開いている。
問題集も、教科書も、付箋もある。
しかも一夜漬けみたいな焦った手つきではなかった。
もう何日も前から積んできた人みたいに、迷いなくページをめくり、止まるところではちゃんと止まり、次の問題へ移っていく。
「え……」
うさぎは思わず目を見開いた。
マリーが勉強すること自体は、知っていた。
知らなかったわけじゃない。
でも、これは――思っていたのと違う。
もっと軽く、もっと要領よく、必要なところだけ拾っていくものだと思っていた。
もちろんそれもあるのだろうけれど、目の前にあるのはそれだけじゃなかった。
ちゃんと積んでいる。
それも、自分が思っていたよりずっと深く。
「……そういうことなんだ」
うさぎは小さくつぶやいた。
中学までは、たぶんここまでじゃなかった。
追兎高校に入ってから、勉強の重さも、深さも変わった。
そのぶん、マリーの“なんとかなる”の中身も、見えないところで変わっていたのかもしれない。
ずっと隣にいたのに。
マリーちゃんのことは全部わかっていたつもりだったのに。
マリーちゃんには、まだ知らない顔があるんだ。
そのことが、少しだけ不思議で、少しだけうれしくて――少しだけ悔しかった。
うさぎはしばらくその灯りを見ていた。
それから、そっとカーテンを閉めた。
次の日の朝。
教室に入ると、マリーはいつも通りの顔で席に座っていた。
「おはよー、うさちゃん」
「……おはよう」
うさぎは席につきながら、少しだけマリーを見た。
眠そうでもない。
平気そうな顔。
いつも通りのマリー。
「なに?」
「別に」
「うさちゃん、その“別に”は別にじゃないやつだ」
マリーが笑う。
うさぎは少しだけ迷ってから、小さく言った。
「……マリーちゃん、昨夜遅くまで勉強してたでしょ」
「えっ」
一瞬だけ、マリーのまばたきが止まる。
「そうかな」
「そうだったわよ」
「見てたの?」
「窓の灯り、見えたから」
「……そっか」
マリーは少しだけ視線をそらした。
それだけで、うさぎには十分だった。
「“なんとかなる”じゃなかったのね」
「なんとかなるようにしてたんだよ」
マリーはそう言って、少しだけ笑った。
軽い言い方だった。
でも、その軽さの奥にあるものを、うさぎは昨日見てしまっている。
「マリーちゃんって、前から勉強してたよね」
「してたよ?」
「うん。でも……」
うさぎは言葉を探す。
「こんなに、とは思ってなかった」
「そっか」
マリーは机に頬杖をついた。
「うさちゃんが知らなかっただけじゃない?」
「そんな言い方……」
「だってほんとだもん」
うさぎは少しだけむっとしたけれど、言い返せない。
たしかに、その通りだった。
「中学まではさ」
マリーが続ける。
「ここまでやらなくても、まあなんとかなったんだよ」
「……うん」
「でも追兎高校、思った以上に難しいじゃん」
「それはそうだけど」
「だから、なんとかなるように、ちゃんとやってるだけ」
その言い方は、やっぱり軽かった。
でも、その軽さが変にかっこつけたものじゃなくて、マリーなりの照れ隠しなのだと、うさぎにはもうわかっていた。
「頑張ってるって言っといて、ダメだったらカッコ悪いじゃん」
「……え?」
うさぎは、少しだけ目を丸くした。
マリーは肩をすくめる。
「だから、あんまり言わないだけ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
うさぎはしばらく黙っていた。
その言い方が、少しだけマリーらしくて、でも少しだけ意外だったからだ。
「マリーちゃんって……」
「なに?」
「ずるい」
「えっ、なんで?」
マリーが笑う。
「そういうの、ちょっとかっこいいじゃない」
「かっこいい?」
「うん」
「そっかなあ」
マリーは照れたように、でも誤魔化すみたいに笑った。
「うさちゃんは正面から頑張るでしょ」
「それしかできないの」
「アタシは、見えないところでやる派」
「派、で済ませるのね」
「済ませる」
うさぎは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
頑張っているのは、自分だけじゃなかった。
しかも、見えないところで頑張るマリーを知ってしまった今では、昨日までの「なんとかなるでしょ」の意味も少し違って聞こえる。
「……じゃあ、わたしも頑張る」
「うん、頑張ろ」
「マリーちゃんもよ」
「やってるってば」
その返事に、うさぎは少しだけ笑った。
試験までの一週間は、思ったよりあっという間に過ぎた。
学校が終わったら、すぐに家へ帰って勉強する。
駅のお仕事はしばらくお休みになっている。
うさぎは計画表に丸をつけながら、少しずつ進めていった。
マリーは相変わらず「なんとかなるよ」と言っていた。
でも、うさぎは知っている。
夜になると、隣の部屋の灯りが、かなり遅い時間までついていることを。
うさぎはそれを見るたびに、少しだけ机に向かう背筋が伸びた。
すぐ隣で頑張っているマリーちゃんがいる。
そう思うと、自分ももう少しやれる気がした。
そして、中間試験が終わった。
返ってきた答案を見て、うさぎは小さく息をつく。
「……思ったより普通だったかも」
平均よりは少し上。
悪くはない。
でも、胸を張って喜べるほどでもない。
頑張った。
ちゃんとやった。
それでも、このくらい。
追兎高校は、やっぱりレベルが高い。
「うさちゃん、どうだった?」
横からマリーが顔をのぞかせる。
「……まあまあ」
「アタシもまあまあ」
「どれくらいの“まあまあ”?」
「平均よりちょっと上くらい」
「わたしも」
「おそろいじゃん」
マリーが笑う。
うさぎは少しだけ答案用紙を見下ろした。
「頑張ったわりに、普通だったかも」
「わかる」
あっさり返ってきて、うさぎは顔を上げた。
「マリーちゃんも?」
「そりゃね」
マリーは机に頬杖をつく。
「もうちょい出来たつもりだった」
「……そっか」
「でもまあ、悪くはないでしょ」
「うん」
悪くはない。
でも、満足とも少し違う。
その曖昧なところが、いまの自分たちらしいのかもしれない。
「次は、もうちょっと上いきたい」
うさぎが言う。
「うん。アタシも」
「本気?」
「本気本気」
マリーはそう言って笑った。
「なんとかなる、じゃなくて?」
「なんとかなる、は、なんとかするって意味だよ」
「……なによ、それ」
「かっこよくない?」
「ちょっとだけね」
うさぎはそう言って、少しだけ笑った。
その夜。
うさぎは机の上の答案を片づけて、ふう、と息をついた。
中間試験は終わった。
結果も出た。
すごく良かったわけじゃない。
でも、ちゃんと頑張った。
少しだけ悔しい。
でも、その悔しさは嫌いじゃなかった。
窓の外を見る。
隣の部屋に、また灯りがついていた。
「……もう?」
うさぎは思わず小さく笑う。
試験が終わったばかりなのに、マリーの部屋の机にはもう何かが広がっているみたいだった。
次の授業の予習か。
試験の見直しか。
それとも、ただ座っているだけか。
わからない。
でも、あの灯りの向こうで、マリーがまた何かを積み上げていることだけはわかった。
うさぎは窓に手をかける。
開けようとして、少しだけ迷って、やめた。
代わりに、自分の机へ戻る。
そして、まだ片づけていなかったノートをもう一度開いた。
「……わたしも、もうちょっと頑張ろうかな」
誰に聞かせるでもなくつぶやく。
窓の向こうの灯りは、静かにそこにあった。
なんとかなる、は、何もしなくても大丈夫って意味じゃない。
ちゃんと頑張った先で言うから、少しだけ格好いいのだと、うさぎはもう知っていた。




