雨の日にだけ
その日、追兎天神駅の空は、朝からずっと灰色だった。
雨。
昨日も降っていたし、一昨日も降っていた。
今日もまた、しとしとと、やむ気配のない雨が降っている。
ホームの屋根を打つ音。
線路の向こうで白くにじむ景色。
改札を抜ける人たちの傘。
いつもなら少し落ち着くはずのその音も、何日も続くと、さすがに気持ちまでしっとりしてくる。
「みこちゃん、元気ないねえ」
マリーがそう言ったのは、午前の仕事が少し立て込んできた頃だった。
「そうですか……?」
みこは返事をしたものの、声にいつもの跳ねる感じがなかった。
うさぎも、ちらっとそちらを見る。
たしかに、元気がない。
仕事をしていないわけじゃない。
挨拶もしているし、指示を聞けばちゃんと動く。
でも、いつものみこちゃんなら、もっとこう、放っておいても明るさがあふれてくるはずなのだ。
今日はそれが、少しだけ静かだった。
「どうしたの?」
うさぎが聞くと、みこは少しだけ考えてから言った。
「……雨だから、です」
「そのまんまね」
マリーが言う。
「だって、ずっと雨なんだもん……」
みこはしょんぼりしたまま、窓の外を見る。
「おひさま見てないと、ちょっと元気が出ないです」
「植物みたい」
アリスが言う。
「みこちゃんは、たぶんそういう生き物なんだよ」
マリーがうなずく。
「なんですか、それぇ……」
みこは口をとがらせたけれど、いつもの元気な抗議とはちょっと違った。
しおんが静かに言う。
「たしかに、今日は少しお静かですね」
「しおんちゃんまで……」
みこがしょんぼりしたまま言うと、アリスがふっと小さく息をついた。
「まあ、気持ちは少しわかるわ」
「アリスちゃんも?」
「雨の日って、なんとなく空気まで重いもの」
「そうそう、それです!」
みこがようやく少しだけ前のめりになる。
「ずっと空が暗いと、気持ちもこう……しょんってなるんです」
「“しょん”って何よ」
うさぎがつっこむ。
でも、その感じはなんとなくわかった。
外はずっと雨。
電車も少し遅れ気味で、駅員さんたちも朝からばたばたしている。
大きな何かが起きているわけじゃない。
でも、全部が少しずつ重い。
そんな日だった。
ぴっ、と無線が入る。
駅員さんの一人がすぐに応答して、少し離れたところで別の指示を出し始める。
どうやら上り電車が少し詰まり気味らしい。
「今日はやっぱり忙しいね」
マリーが言う。
「雨の日は、こういうことも増えるのよ」
うさぎが答える。
みこも「はい……」とは返したけれど、やっぱり少しだけ元気がない。
「みこちゃん」
うさぎが声をかける。
「悪いけど、改札のところ見ててもらえる?」
「はいっ」
返事はした。
でも、やっぱり少しだけしょんぼりしている。
みこは改札のほうへ向かった。
外から入ってくる人。
中から出ていく人。
傘をたたむ音。
濡れた靴の気配。
雨の日の駅は、いつもより音がやわらかい。
そのぶん、少しだけ世界が遠く見える。
みこはぼんやりと改札の向こうを見ていて、ふと気づいた。
「あれ……?」
赤い色が見えた。
改札口の少し向こう。
雨のにじむ景色の中に、小さな子が立っている。
赤いレインコート。
小さな笠。
白っぽい髪。
その子は、ただ静かに立っていた。
誰かを待っているみたいにも見えるし、
何を見ているのかわからないようにも見える。
みこは少しだけ首をかしげる。
「……迷子なのかな?」
その子は動かない。
でも、泣いているわけでもない。
困っているようにも見えない。
それが逆に気になった。
みこはそっと近づいていく。
「あのね」
声をかけても、その子は何も言わなかった。
ただ、ゆっくりみこのほうを見た。
大きな目。
静かな顔。
でも、怖くはなかった。
「ひとりなの?」
「……」
返事はない。
「お母さん、どこかにいる?」
「……」
やっぱり返事はない。
みこは少しだけ困ったけれど、放っておくのも気になった。
「駅の中、来る?」
そう言って手を差し出すと、その子は少しだけみこの手を見て――
ことり、と小さくうなずいて、ちいさな手をのばした。
「うさ姉さま」
事務室に戻ってきたみこを見て、うさぎが顔を上げる。
「どうしたの?」
「迷子……かもしれません」
みこに手をつながれて立っている小さな子を見て、みんなの視線が集まった。
「えっ」
マリーが目を丸くする。
「誰?」
アリスも首をかしげる。
赤いレインコートの子は、何も言わずにそこにいた。
濡れているはずなのに、なんだか不思議と雨の気配が強くない。
ただ静かに、まっすぐ前を見ている。
「改札のところにいたんです」
みこが説明する。
「迷子かなって思って……」
「話はできるの?」
うさぎが聞く。
みこは首を横に振った。
「ぜんぜん喋らないんです」
「名前は?」
「それもわからないです」
うさぎはその子の前でしゃがみこんだ。
「こんにちは」
「……」
「おうちの人はどこ?」
「……」
返事はない。
でも、泣きそうでもないし、怯えているわけでもない。
むしろ、どこか落ち着いている。
「不思議な子ね」
アリスが言う。
しおんも少しだけ目を細めた。
「……そうですね」
マリーが、その子の顔をのぞき込む。
「お腹空いてるとか?」
「わたしもお腹空いた」
みこが言った。
一瞬、みんながみこを見る。
「みこちゃんも?」
うさぎが聞く。
「はい……」
みこはちょっとだけしょんぼりしたままだった。
「なんか、雨の日ってお腹すくんです」
「そういうものなの?」
アリスが聞く。
「みこちゃんはそういう生き物なんじゃない?」
マリーが言う。
「じゃあ、オヤツにしようか」
うさぎが言った。
みこの顔が少しだけ上がる。
「いいんですか?」
「少しくらいならね」
「やった……!」
その“やった”も、まだ少し控えめだった。
でもさっきよりは、ほんの少しだけ明るい。
うさぎは棚から個包装のお菓子を取り出した。
「はい」
「ありがとうございます!」
みこが受け取る。
それからうさぎは、赤いレインコートの子にも同じように差し出した。
「あなたも、食べる?」
その子はじっとお菓子を見つめてから、そっと受け取った。
静かな動きだった。
「食べた」
みこが小さく言う。
「食べるのね」
アリスも少しだけ安心したように言った。
赤い子は、何も喋らないまま、お菓子をひとくち食べる。
そして――
ほんの少しだけ、笑った。
「あ」
みこが声をもらす。
「笑った」
「ほんとね」
うさぎも言う。
ちいさな笑顔だった。
でも、それだけでずいぶん空気がやわらいだ気がした。
「おいしい?」
みこが聞く。
その子は返事の代わりに、もうひとくち食べた。
「たぶん、おいしいんだよ」
みこが言う。
「そうね」
うさぎがうなずく。
みこはその子の隣にちょこんと座って、一緒にお菓子を食べた。
相手は何も喋らない。
でも、それでも不思議と気まずくなかった。
事務室の外では、雨の音が静かに続いている。
駅員さんたちはまだ少し忙しそうで、駅の中にも慌ただしさは残っている。
でも、この場所だけは、少しだけ別の時間みたいだった。
「そろそろ、お母さんか迎えに来るはず……」
うさぎがそう言って、その子のほうを見た時だった。
「……あれ?」
誰もいない。
そこにいたはずの赤いレインコートの子が、どこにもいなかった。
「えっ」
みこが立ち上がる。
「さっきまでここにいたよ?」
「出ていったの?」
マリーが言う。
「でも、音しなかったわよ」
アリスが周囲を見る。
うさぎも事務室の入口を見る。
開いた気配はなかった。
少なくとも、自分は見ていない。
「しおんちゃん、見てた?」
「……いいえ」
しおんは静かに首を振る。
「気づいた時には、もう」
みこがきょろきょろと見回す。
「どこ行ったんだろう」
「駅長さんに聞いてみる」
うさぎはすぐにそう言って、駅長のところへ向かった。
「赤いレインコートの子?」
駅長は少し首をかしげた。
「そんな子、見てないよ」
「えっ」
うさぎが言う。
「でも、改札のところにいて……」
「今日はそういう子は入ってきてないはずだよ」
近くにいた駅員さんも言った。
「少なくとも、僕は見てないなあ」
うさぎは少しだけ黙った。
みこが連れてきた。
みんなで見た。
お菓子も食べていた。
それなのに、“最初からいなかった”みたいに言われる。
「……そうですか」
うさぎはそれ以上言えなかった。
事務室に戻ると、みこが心配そうに顔を上げる。
「どうだった?」
「駅長さんも、駅員さんも、そんな子は見てないって」
「ええっ」
マリーが言う。
「そんなことある?」
「でも、いたわよね」
アリスも言う。
「わたし、ちゃんと見たもの」
「うん」
みこもこくりとうなずく。
「いたよ」
その言い方が、なんだか少しだけ静かだった。
さっきまでしょんぼりしていたみこちゃんとは、少しだけ違う顔をしている。
「ちゃんと帰れたらいいんだけど」
うさぎが言うと、みこはすぐに答えた。
「帰れたと思う」
「どうしてそう思うの、みこちゃん」
うさぎが聞く。
みこは少しだけ窓の外を見た。
雨はまだ降っている。
でも、さっきよりほんの少しだけ、音がやわらかく聞こえた。
「この雨音を聞いてたら、なんとなく」
「なんとなく、ね」
アリスが小さく繰り返す。
みこはそのまま続けた。
「また来るんじゃないかな」
「……そうかもね」
マリーが言う。
その時、みこがぽつりと言った。
「あまねちゃんは来ると思うよ」
「みこちゃん」
うさぎが振り向く。
「あの子は、あまねちゃんって名前なの?」
みこは首をかしげた。
「知らないよ」
「え?」
「でも、なんとなくそんな感じがしたから……」
うさぎは少しだけ息をのんだ。
根拠はない。
説明もない。
でも、なぜかそれが間違っていない気がしてしまう。
しおんは何も言わなかった。
ただ静かに窓の外を見ていた。
アリスも、今日は珍しくすぐにつっこまなかった。
「……不思議ね」
そう言っただけだった。
そのあとも、雨はやまなかった。
でも、みこちゃんの顔は、朝よりほんの少しだけ明るくなっていた。
「みこちゃん?」
うさぎが声をかけると、みこは振り向く。
「はい?」
「さっきより、ちょっと元気になった?」
「えっ」
みこはきょとんとしてから、少しだけ笑った。
「そうかも」
「ほんと?」
マリーが言う。
「うん」
みこは窓の向こうの雨を見た。
「まだ、ちょっとだけしょんってしてるけど」
「“しょん”はまだ使うのね」
うさぎが言う。
みこはえへへと笑う。
「でも、さっきよりいいです」
「それならよかったわ」
うさぎが言う。
みこはもう一度、窓の外を見た。
赤いレインコートの子は、もうどこにもいない。
けれど、不思議とさみしい感じはしなかった。
また雨の日に、ふっと会える気がする。
そんな気がした。
「次に来たら、もっとおいしいお菓子をあげたいです」
「食べ物なのね」
アリスが言う。
「大事だよ?」
みこは真顔で答えた。
その声は、朝よりちゃんと明るかった。
うさぎは小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。
雨の日は、まだ続く。
でも、今日の雨音は、朝より少しだけやさしく聞こえた。




