“失ったものを取り戻す”という願い
郵便局の奥へと通された二人は、狭い廊下を抜けた先の小さな事務室に案内された。
窓から差し込む午後の光が白い壁に淡く反射し、部屋は静かだった。
「どうぞ、おかけください」
彼女はそう言って、湯気の立つティーポットを手にした。そして淡い色のお茶を注いでいく。
二人が椅子に腰を下ろすと、彼女は慣れた手つきでカップを並べた。
レーネは緊張で指先が冷たくなっていた。
ルーカスは背もたれに浅くもたれ、警戒するような目つきで室内を見回している。
「どうぞ」
彼女がすすめたカップから、柔らかい香りが立ち上った。
レーネは鼻先をくすぐるその香りにはっとする。
(……この香り、あの便箋と同じ……)
「いい香り……すごく、おいしいです」
「ありがとうございます。島の特産品なんです。」
「この香りは便箋にも…」
「ええ…好きなんです(笑)」
「これのおかげであなたにお会いすることできたんです…」
「そうでしたか…」
こうして他愛もないいかにもただの観光に来たような世間話を一通り続けた。
その間ルーカスはただお茶を飲むだけだった。
世間話も尽きた頃彼女は二人の顔を静かに見つめ、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「……よくわかりましたね。ここが…」
レーネは小さく頷く。
ルーカスは少し目線をそらした。
「そして、あなた方がここに来た理由――お父さまのことを知りたくて来られたのだろうということも、わかっています…」
しかし、レーネは声が出なかった。
何から聞けばいいのか、頭の中がぐるぐると混乱していた。
その迷いを感じ取ったのか、彼女が静かに口を開く。
「……お話ししても…お父様のお話を…」
「はい…お願いします」
レーネがそういうと彼女はお茶を一口くちにした。
そして話し始めた。
「私がお父様にお会いしたのは、海の感謝祭の夜でした…」
彼女は迷子に困っていたところを助けてもらったこと、そのあと何度か会社で話しをしたことを話した。
「お父様はお二人を守れなかったとよくおっしゃってました。ご存知とは思いますが、お父様の軍歴…」
レーネの胸が、ずきりと痛んだ。
ミュラーの本でそのことは読んで知っていた。手紙にも書いてあった。自分達と同じような年の子供達と戦場にいたこと…
自分達を手離した後悔から命がけでその子達を守ろうとしたこと…
手紙には父親の後悔と懺悔が至る所にあった。
「お父様に手紙を勧めたのは私でした。ですがお父様は書けなくて、そこで私は当時代書を担当していましたので…私が代書を引き受けようと思いました」
「なんで父は手紙が書けなかったんですか?」
ルーカスが問いかけた。
その口調は少し冷たく、なにかを責めるようなでもあった。
「…それは…」
彼女はなにかを思い出すような顔をしたあとに答えた。
「戦場で長く過ごした人にはよくあることですが気持ちを感情を言葉にすることが難しかったのだと思います」
「だからお父様のお話されることをそのまま形にしようとしたのです……そうすればお父様も話しやすいですしお気持ちが伝わると思いまして…ですが未熟だった私は、配慮が足りませんでした…」
彼女は少し表情を曇らせ、頭を下げた。
「……その手紙は“手紙らしい手紙”にはなりませんでした。というよりわざとあんな形にしました。あなた方が読んだあの報告書のような文です。」
レーネは息を呑んだ。
ルーカスも、わずかに眉をひそめる。
彼女は自分を責めるように視線を落とす。
「すみません。本来なら、もっと柔らかく書けたはずなのです…お父様のお話を私が代筆として変えてしまってはなにかがなくなりそうな気がして…浅はかでした…」
二人は、ようやく理解した。
なぜ、父の手紙があんな形だったのか。
誰かが冷たく書いたのではなく――
**伝える術を失っていた父の“現在地”**だったのだ。
「で、なぜ父は私達にせっかく書いたのに出さなかったんですか?」
こんなことまで彼女が知ってるわけはないと思ったがレーネは聞いてみた。
「お父様は怖いとおっしゃってました…自分のことをあなた方に送ってどう思われるのかと…かなり悩まれたようです…送る勇気が持てないとも…傷つけてしまうかもしれないと…」
「……」
レーネは口元を押さえた。
「私は“いつか送る決心がついた時に送れるように郵便会社でお預かりすることをお勧めしました。お父様はその言葉に安心して、手紙を預けたのです…」
レーネ胸の奥で、後悔と不安で小さくなり送られない手紙の前で後悔と不安で小さくなっている父の姿があった。
「まさか、届かない未来が来るとは……私も、想像していませんでした…お預かりしてる通知はお送りしたはずなんですが…」
そこで、レーネは震える声で言った。
「……祖父母は、私たちにその通知を教えてくれませんでした。ずっと…遺品の中にあったのを見つけて…なぜなのか、ずっとわからなくて……」
しかし、ルーカスが口を開いた。
「――父親の存在を、消したかったんだよ」
二人はも、思わずルーカスを見た。
「祖父も祖母も父さんのことをいないものとして扱った。俺たちにもそうさせたかったんだ…そういうふうに思わせたかったんだろう…“最初からいなかった”ってさ…」
「ルーカス……そんなこと……」
「わかってたよ、俺は。だから俺も、父親なんて最初からいなかったんだって、自分に言い聞かせて生きてきた…だって母親もいなかったんだ俺には…俺は両親を知らない…そういう子供だと思って生きてきた…そう思わないと生きてこれなかった…いるなんて言われても俺にはなんの感覚もない…俺には親はいない…そう思い込ませて、思い込んでなにも考えずに生きてきた…それが普通だと思って…」
レーネはルーカスの言葉が全身に刺さった。
弟はこんなことを…辛かった。
自分には母親の記憶も父親の記憶もわずかにあった。
でもルーカスには…
ルーカスがそんなことを子供ながら考えてきたことが姉として一度もわからなかったし、想像もしたことがなかった自分が情けなかった。
「だから、俺には親はいない!」
ルーカスは最後に一言はっきりと宣言するかのようにその言葉を出した。
「でも…」
とレーネが言った瞬間ルーカスの顔が変わった。
「姉さん!姉さんだって辛い思いをしてきたはずだ!なんであんなヤツのこといつまでも追っかける!俺たちはあいつに捨てられてんだ!守れなかった?あいつはそれで戦場で誰かを守れたのか?結局誰も守れないのをウジウジ悩んでるだけの人なんだよ!」
ルーカスのあまりの剣幕にレーネの目から涙が止まらなかった。
それは弟がこんなに苦しんでいたことが…
ルーカスとレーネを前にしながら彼女は静かに目を伏せた。
ルーカスの言葉が、胸を刺すように痛かった。
(アドリアンさんは……ずっと二人を想っていたのに)
「……アドリアンさんは、あなた方のことを本当にずっと思っていました」
彼女はまっすぐレーネとルーカスを見つめた。
「戦場にいた頃から、あなた方のことを気にかけていたのだと、私は思います。彼が語った少年兵たちの話を聞くたびに、ほんとうは親としてあなた方を守りたかった…でも守れなかった…それだからこそ見捨てたくない…そうだからこそ戦場でもあなた方を思いながら、もう裏切りたくないと思いながら彼ら少年兵を必死に守っていたのだと思います…彼ら少年兵を守ろうとするアドリアンさんはあなた方を守っていたのだと思いますよ…」
二人には沈黙が、深く流れた。
「それで父は…」
レーネは尋ねた。
「私はお父様が定年まで郵便会社で働いていたことは聞いてました。ただ私はこちらに来てましてのでその後どうされたのかは…」
「……そう、ですか……」
レーネの表情は揺れ、消えてしまいそうな声が漏れた。
突然彼女立ちあがり、奥の執務室へと向かった。
戻ってきたとき、その手には古びた一枚の写真があった。
「これを……」
差し出されたのは、レーネが博物館で見た集合写真。
父親が、少し照れたように笑っていた。
「アドリアンさんの写真は、私にはこれしかありません。もしよければ……あなた方に持っていてほしいのです」
「そんな……大切なものなんでしょう? 受け取れません」
レーネが首を振る。
すると彼女は静かに言った。
「私は……失ったと思っていたものを、取り戻すことができました。
だから、あなた方にも――できるなら取り戻してほしいのです」
二人は顔を上げる。
彼女の声はその奥に深い祈りのようなものがあった。
「お父様だけではありません。お二人には、お母様という方もいらっしゃったはずです。
思い出がなくても――その存在という事実は、消えません…」
彼女の目がニコリとしていた。
「私は……孤児です。物心ついたときから親という存在を知りません。
だから……あなた方には、どんな親であっても、その存在を“いなかったこと”にはしてほしくない。 どうか――大切にしてあげてほしいのです」
静寂が落ちた。
レーネはカップを握り締め、ルーカスは僅かに目を伏せた。
部屋の中には、ハーブティーの香りと、
長い時間を越えてつながった三人の静かな息づかいだけがあった。




